アンゴラ通信
第1章 ホテルの居心地
なぎさちゃん、
成田空港まで送ってくれてありがとう。お前の可愛い笑顔を目に浮かべながら、おじいちゃんは飛行機を乗り継いで、とうとうアフリカのアンゴラ共和国までやって来たのだよ。
なぎさちゃん、世界は広い!成田からフランスのパリまで12時間、パリからアンゴラの首都ルアンダまで7時間、合計19時間の空の旅で、やっと着くほど遠いんだ。日本からすれば地球の裏側にあたるかも知れない。そんなに遠いところへ来ているんだよ。
いま、帰国を数日後にひかえ、おじいちゃんは不安に駆られている。なぜなら仕事がうまく進まないからだ。おじいちゃんの仕事は病院の調査なんだが、それが順調にいかない。今日は日曜なのでホテルの部屋にこもり、なぎさちゃんに手紙を書いているけれど、気が滅入ってくる。もう少ししたら日本に帰れるのに、ちっとも嬉しくない。こんなことってあるだろうか。
ホテルはいつも冷房が効いて寒いくらいなのに、どうしたことか今朝から冷房が効かず、送風の音がするばかり。そう言えばシャワーの水の出が悪く、頭を洗うのをよした。
午前中外出して昼食時にホテルに戻ったとき、はっきりした。トイレの水が出ないと分かったからだ。手洗いの水も出ず、栓をひねると「ガーッ」とおならみたいな音がするだけ。これは電力が弱って揚水ポンプが回らず、屋上のタンクがからになったからなのだ。
ホテルの6階にあるレストランへ行くと、暑くて堪らないので、4〜5人いた先客が食事のオーダーを取りやめ、ぞろぞろと立ち上がって外へ出て行った。
わたしは同行の五代儀さんと渡辺さんと一緒に席についたばかりだったが、こんなに暑くては食事にならないと、よそへ行くことにした。幸い、玄関前には白タクの、ポルトガル人の小母さんがいたので、通訳の渡辺さんが交渉して、往復20ドルで町のレストランへ行くことにした。
五代儀さんによれば、「ホテルは停電になり、緊急用の発電機を回しており、今日は日曜で滞在客が少ないものだから燃料節約のため、発電機の電力をさげている」とのことであった。
昼食後、ホテルに戻っても水は出ず、部屋の冷房も効かず、ベッドの上にぐったりと横たわった。コーヒーを飲んだせいか眠れず、そうかといって本を読もうとしても内容が頭にはいらない。
午後7時を過ぎてやっと町の電気が来たらしく、冷房が効きだしてやや凌ぎよくなり、温かい水が出るようになったので、シャワーを浴びた。冷蔵庫からミネラル・ウオーターを取り出して飲もうとした途端、停電だ。暗い中でじっとしていたら、3分後にホテルの発電機が動き出して電灯が点き、空調の吹き出し口から涼しい風が流れ出てきた。夕方になったので、ホテルがサービスのために発電機を全開にしたのだろう。生き返ったような気がしてなぎさちゃんに手紙を書き出した。と、こういうわけだ。
このホテルは26階建て、フランスのメリジャン系のホテルだが、アンゴラ政府との共同経営になっているのでサービスが悪く、世界中にあるメリジャン・ホテルのなかで最悪の評価を得ている。
受付係は1日3交代なので、いつも変わった顔ぶれで、キーを貰いに行ってもニコリともしない。別のキーを渡したので、「これは違います」と言ったら、謝りもせず、無表情でキーを受け取り、わたしのキーを出してくれた。
サービスが悪いのはそれだけではない。部屋の電気スタンドが点かないので、女中の顔を見るたびに修繕を頼んでいた。一度などはわたしの目の前で保守係に電話して修理を依頼し、「すぐ直します」と言ったのに、それでも直らなかった。2週間経っても、まだ直らない。
女中は掃除に来てもバスルームの石鹸やシャンプーを補充しない。掃除係の女中は石鹸やシャンプーを持たされず、別の係が補充することになっていた。
第2章 病院の会議
1.予算は国家機密
我々の不安を最初にかきたてたのは、到着して1週間後にやっと病院の院長室で院長、医局長、事務長の3役が顔をそろえて会議の席についたときである。日本調査団が病院の予算を質問したので、事務長のアダンが手にした書類を見せようとしたら、ペドロ・サルダナ・デ・マガラエス院長とニロ医局長が声をそろえて、「これは見せられない。国家機密だ」と押しとどめた。わたしは思った。「病院の予算が国家機密とはナンセンス!国立病院なら公表してしかるべきだ。この病院は経営難なので日本政府に救援を申し出たのではないか。その理由は予算が足らない。『予算はこの通りだから、足らない』と見せてくれなければ納得出来ない」
アダン事務長は真っ黒な肌に縮れた頭髪を持ち、どう見ても田舎の百姓おやじみたいな鈍重な表情をしていた。彼は下を向き、重々しい声でゆっくりとしゃべり、時々顔を上げて相手を実直そうな目つきで見た。太い不器用そうな指が支える書類は過去数年間の病院財務の実績がタイプされてあった。
同行の岩崎が尋ねた。「それでメンテナンス予算はどのくらいありますか?」これはあらかじめ提出した質問表に書かれてあった。1週間前に院長と医局長に手渡したポルトガル語の表には病院名、住所、院長名から始まり、病院の沿革、規模、経営方針、予算などが質問されてあった。それらに対して今日の会議で回答することになった。我々は病院側が質問表に書き込んで、「これこの通り」と返してくれるものと思った。しかし、院長と事務長が手にしているのは何も記入してない白紙であった。アダンなどはたった今見せられたという顔をしている。岩崎は自分が技師という職種柄真っ先にメンテナンス予算を質問したのであった。
アダンは隣のペドロ院長に持参の書類を見せ、顔を寄せて何やら相談していたが、やおら立ち上がり、隣室の院長事務机から計算機を持ってくると計算を始めた。通訳の渡辺がアダンの隣席にいて、怪訝な顔をしている一同に説明した。「少々お待ち下さい。いま計算していますから」
長いことかかって彼は計算し、数字を書き込み、院長の承諾を得てから渡辺を通して岩崎に表を渡した。それは1993年から1996年までの4年間の建物修理費と医療機材修繕費であった。アダンが不器用な手で計算機を使って計算したのは年度ごとの合計で、単位はドルで出ており、1993年度は建物修理費0、1994年度は足し算が間違えていた。
数字に0が並んでいるので複雑そうに見えるものの、それは小学生でも暗算で出来る簡単な計算であった。計算を間違えた1994年度は建物修理費25万ドル、医療機材修理費1万7千ドルで合計26万7千ドルなのに、アダンは25万1千ドル7百ドルとしていた。1995年度は32万5千ドル+2万7千ドル=35万2千ドル、1996年度は40万ドル+5万2千ドル=45万2千ドルである。こんな簡単な計算なのに、計算機を使い、長時間を費やすアダンの知能を疑わざるを得なかった。
2.職員数とベッド数はおおまか
当日の会議では他にも質問があり、医師数、従業員数、科目別べッド数なども問いただした。こういう数字は院長が把握しており、何時でも回答できなければいけないと思ったのに、ペドロ院長は沈黙を守り、代わってニロ医局長が答えた。彼は記入済みの質問表を返してくれるのかと思ったら、そうではなく、いちいち読み上げた。彼が言うポルトガル語の数字を渡辺が日本語に通訳し、それを我々は一生懸命筆記した。
ニロ医局長が言う数字は大雑把である。内科医30名、外科医20名といった調子だ。わたしは心のなかで、「ええいっ、いい加減なことを言って」と憤慨した。
彼がベッド数を述べたとき、抗議が口にのぼった。「外科ベッド数300、整形外科ベッド数300」と言ったからだ。「そんなにたくさんないじゃないか!」我々はすでに病院内を歩き回り、何処に何ベッドあるか知っていた。例えば新館5階に外科ベッドがあり、看護部次長から「ここのベッド数は50」と言われ、数えてみたら77ベッドであった。つまり、外科ベッド数は77しかない。それなのに、300ベッドとは怪しからん。「医局長は信用できない」と我々は話し合った。
我々が日本語で言い合っているとウソがばれたかと思ったのか、院長が、「いずれにしても、本院は900ベッドになっている」と言う。ニロは、「この数字は各科の責任者に問い合わせて得た数字だ。彼らの返答を信用しないで、病棟を調べて歩けば、責任者の恨みを買うことになる」といたずら坊主の目を剥いて言った。彼は我々の心中を読み取ったに相違ない。
外来患者数になると一層紛糾した。ニロが「救急患者数は1日600名」と言ったからである。「ええっ、大袈裟な」「1日600名なんて馬鹿げたことを。そんなに来ない」「業務日誌を見れば判る」などと口々に発言したが、渡辺は通訳しない。いちいち通訳するのは面倒だし、通訳したら大変なことになると思ったからである。誰かが、「各科の責任者を集めて下さい」と言ったら、渡辺はそれだけ通訳した。院長が言った。「各科の責任者を集めることは出来ません」
後日分かったことだが、各科の責任者は週1回、ニロの部屋に集まって打ち合わせをする。また、各科の技師主任が毎朝集まっていた。シラを切って責任者を集めることは出来ないなんて良くも言えたとわたしは思った。
院長が何やらくどくど言い続けるのを押しとめて、渡辺が通訳した。「そんなに調査しないで、くれるものは早くくれれば良い」
五代儀が笑った。「何をねぼけている」岩崎は激昂して、「機材供与は日本国民の血税でなされます。ですから、機材を無駄にしたくないのです。そのために調査をしています。我々は本院の調査をして日本政府に報告する任務があるのです。ですから、あなたがたは質問に正確に答えて我々に協力してください」と言った。渡辺は真剣に通訳して岩崎の言葉を3人に伝えた。
ペドロは分かったかのように大きい頭を前後に振った。ニロは狡猾そうな目を見開き、ペロッと赤い舌を出した。アダンは鳩が豆鉄砲を食らったような表情をして渡辺の言葉を聞いていた。
アンゴラの人々を何と評したら良いか、一言では言えないが、何を考えているか分からない。我々とは異種の人間であると感じた。
これがおじいちゃんの結論さ。夜も更けたので寝るとしよう。手紙を書いたせいか、気持ちがせいせいした。お前のような可愛い孫娘がこの地上にいると思うと、それだけで安心するよ。
なぎさちゃん、それじゃ、おやすみ。
第3章 事務長室にて
なぎさちゃん、
おじいちゃんが調査しているアンゴラ共和国の国立ジョシナ・マシェル総合病院は広い敷地にこみいって建てられた、迷路のような病院で、どこがどうなっているのか分からない。1人で歩いたら必ず迷子になる。分からないのは建物ばかりでなく、命令系統や職員の組織がどうなっているのか、いくら説明を聞いても分からない。まるで闇夜にカラスを追いかけているようで、つかみどころがない。それで、管理者としては一番物知りと思われる事務長に会い、いろんな疑問に答えてもらおうとしたんだよ。今日はそのときの模様を知らせたい。
院長室の会議の翌日、事務長アダンのところへ行った。
事務室の奥が事務長室に通じていて、入って行こうとすると、通り口に大男が立ちふさがった。武蔵丸みたいなごついからだをしており、褐色で扁平な大きい丸顔をしていた。オズワルドという名の経理課長である。
「事務長にご用ですか。日本の方々ですね。おいでになることは聞いていました。さあ、こちらへ」と、外へ出ようとする。「いいえ、我々は事務長室でアダン氏にお会いしたいのです」と岩崎が言い、渡辺が通訳した。するとオズワルドは、「事務長が言うのには、『客人が見えたら院長室へ案内せよ』とのことです」と答えた。我々はそれまで会った院長や医局長の態度に不正を隠しているような、煮え切らないところがあったので、田舎の百姓みたいな事務長に訊けば、病院のことが分かると期待した。それに、院長室にも医局長室にも病院資料はまったくなく、事務長室ならあるだろうと予測した。またメンテナンス関係のスタッフを、「ちょと来い」と呼んで貰って実情を聞くことも出来ると判断したのである。
「まあ、いいや。一旦、院長室で会い、それから事務長室へ移動すればよい」と岩崎が言うので、我々はオズワルドについて外へ出た。
外気は光と熱と湿気にあふれていた。熱帯の太陽がギラギラ輝き、病院前広場の火焔樹の毒々しい赤い花を一層燃え立たせていた。病院は岡の上にあるので、北と西に紺青色の大西洋が望める。かすかな潮風が頬をなでるのを感じてやっと人心地がついた。
オズワルドに続いて本館の玄関に入った。ポルトガルによって1883年に建造されたレンが造りの平屋の建物は天井が高く、壁が厚いので、ひんやりして古寺に入ったような気がする。院長室の前に混血のおばちゃんが立っていて、「誰もいないよ」と手を振った。彼女は50才ぐらいであろうか、小柄で肌は白人に近く、黒い髪の毛をパーマで波うたせていた。いつも院長室の前にいて、我々の顔を見ると、しかめ面をして、「今日は院長はいない」というのが常であった。
オズワルドは木のドアをギーと音をさせて開いてから、渡辺に訊いた。「院長は今日はいません。事務長に会うのなら、事務長室でもいいですか?」
それは我々の願うところだったから、渡辺が、「ボクたちは事務長室で事務長にお会いしたいのです」と告げた。それでまた事務長室に戻ることになった。
事務長室は事務室を通って入れるが、廊下にもドアがあって、直接入ることが出来た。
鉄格子のドアの先に木のドアが閉まっていた。オズワルドがノックするとアダンの顔が出てきた。「こっちへ来たか。しょうがないな」と彼の黒い笑い顔に書いてあった。キングコングに似て突き出した額の下に金壷眼がついており、真っ赤な下唇が垂れ下がっている。頭髪はすっかり白くなって絨毯のように縮れて頭皮にひっついていた。
「病院の歴史を教えて下さい」とわたしが言った。するとアダンは重苦しい口調で説明しだした。「この病院は1883年ポルトガルによって建てられ、『マリア・ピア病院』と呼ばれました。独立後、ジョシナ・マシェル病院と改められました。それはモザンビーク大統領の夫人の名前です。アンゴラもモザンビークとともにポルトガルの植民地でしたから、独立のために一緒に戦ったのです。ジョシナ・マシェルは勇敢な女性兵士でした」あげまんだったのだな。南アのマンデーラ夫人やペルーのフジモリ夫人とは違うと、わたしは思った。
「ところで、事務室の建物はいつ増築されましたか?」と岩崎が訊いた。「1957年ですよ」とわたしが答えた。入り口に銘盤が張りつけられ、増築年月日が刻まれてあった。しかし、アダンは、「ちょっと待ってください」と立ち上がり、入り口へ行って銘盤を見てきて、「1957年です」と答えた。「5階建ての新館はいつですか?」と私が訊くと、「1989年です」とたちどころにアダンが答えた。
「病院の図面が欲しいのです」と岩崎が言うと、アダンはびっくりして口をあんぐりさせてから、驚くべき返事をした。「図面はありません」「どこにあるのですか?」「建設省にあります」「とり寄せてください」「あなたが取ってきて下さい」とアダンが言うので、今度はこちらがびっくりした。
「我々は外国人ですよ。あなたは病院の管理者じゃありませんか。あなたが取ってください」と岩崎が言うと、アダンは、「外国人でも、アンゴラ人でも、困難は同じです。図面は国家機密だからです。建設大臣に手紙を書いて正式に請求しなければなりません」と説明する。
「病院のありかを示す地図も要ります」と五代儀が言うと、「それは県庁にあります。それも手紙を書いて請求しなければなりません」とアダンが説明した。
「病院の予算を見せてください」とわたしが言うと、アダンは聞いてはならない悪魔の言葉を聞いたかのごとく、からだをのけぞり、真っ赤な舌を出して、気息奄々の状態で呼吸していたが、「それは国家機密です」と答えた。「我々はどうしても、それが要るのです」と岩崎が叫んだ。
それから岩崎は手をわなわな震わせて、「我々は日本国民に納得して貰えるような報告書を作る義務があります。そのために病院の予算をしめして、『これこの通り、病院には機材を買う金がありません』と説明せねばならない」としゃべった。しゃべり終わると手の震えもおさまった。アダンは首を振って、「院長の許可がなければ、院長は大臣の許可がなければ」を繰り返すだけであった。
「では病院の組織を教えてください」とわたしが言った。「病院のトップは院長ということは分かっています。副院長はどなたですか?」と訊くと、アダンは、「副院長は欠員です」と答えた。「院長のすぐ下にいるのは誰ですか?」「医局長のニロ先生です。そのほか事務長と看護部長がいます」「看護部長はだれですか?まだ会っていませんけれど?」「長期休暇中です。中央検査部長も休暇中です」「病院の管理者のなかには技師長がいると聞きましたが?」とわたしが訊くと、「技師長も欠員です」という返事が戻ってきた。
共和国最大の総合病院で、自称900ベッド、従業員2000名というのに、管理者が何人も欠員だったり、長期休暇中とはどういうことだろう。これは管理不在の病院だなと痛感させられた。院長は簡単に、「従業員2000名」と言ったが、アダンに訊くと従業員数で分かるのは、「医師78名、技師109名、看護婦336名」だけでその他の実数は不明である。
「病院の設備について伺いたいので、責任者を呼んでください」と岩崎が言った。アダンが立ち上がって隣室へ行き、オズワルドに言いつけてから席に戻り、「いま来ます」と知らせた。間もなく、どやどやと3人の男たちがやって来た。副薬局長のジュアンが医療機械のメンテナンス係、総務課長のアルサソが水道関係、技師のアルベルトが電気関係の係であった。
「まず、給水の状況について説明願います」と岩崎が言うと、アダンが答えた。彼が一番詳しかった。「ルアンダ市の給水施設は人口50万のとき設置されたので、現在の人口150万に対応しきれない。病院は1日おきに24時間断水している」「断水のときはどうしますか?」「買っています」「何処から来る水ですか?」「川の水です」「水質はどうですか?」「水質検査はしておりません」「川の水を飲んで下痢しませんか?」とわたしが質問すると、副薬局長が平然と答えた。「慣れているから下痢しません」
「電気のことを聞かせてください」と岩崎が声を震わせて言った。彼は焦っていた。というのは既に12時を過ぎていたからである。これから現場を見学させて貰わねばならない。ここの人たちは12時になると空腹感が強くなり、院長も医局長も、「腹が空いたから会議を止めよう」と言い出す。院長は「月給が20ドルで、ろくろく食べていないから早く昼食にしたい」などと言い出す始末であった。「毎日、4時間ぐらい停電があります」と技師のアルベルトが答えた。「発電機はありますね?」「ええ、2台あります」
「では医療機材の故障はどうしますか?」と岩崎が訊いた。「その場合は副薬局長のジュアンのところへ報告が行きます」とアダンが答えた。ジュアンが後を引き取り、「メンテナンスの技師を現場に派遣します」と答えた。技師でも直らない場合は、ニロ医局長に報告し、ニロが外部の会社に修理を依頼するとのことであった。
「あの、トイレをお借りしたいのですが」とわたしは隣に座ったアルサソに言った。すると、彼はわたしを連れて隣室へ行き、事務員にトイレへ案内するように言いつけた。
直ぐ近くにトイレがあるのかと思ったら、院長室までわたしを連れて行き、例の混血のおばちゃんにわたしを引き継いだ。外国人が使えるトイレは院長室にしかなかった。それでアダンが会議を院長室で開きたかったようだ。院長室に付属したトイレは広くて立派で、清潔だったが、水が出ない。どうしたものかと見回したら、バケツに水が汲んであったので、「ああ、そうか」と分かった。バケツの水を流せば良いのであった。
トイレから戻ると五代儀が来ていた。医療機械店のテクノサド社を訪問して来た。「病院では機械が故障すると、テクノサド社に電話して修理を依頼するが、支払いがないので、最近は断っている」ということであった。
つまり壊れたら直せないというのが実情で、アダンが言うメンテナンスのシステムは架空のものであった。
なぎさちゃん、おじいちゃんがアンゴラの人たちと話してどんなに驚いたか分かったろう。ここの人たちは肌が黒くて我々とは違う人種だけれど、考え方も大分違うことが分かった。事務長さんが病院の図面を持っていないとか、予算は秘密だとか、メンテナンスがうまく行っていると話しても実際は駄目だとか、日本人の常識では理解出来ないとこばかりだ。
なぎさちゃん、世の中にはいろんなことがある。おじいちゃんもこの年になるまで常識が通らない社会があることを知らなかった。このあとも次々とびっくり仰天するようなことが起こるから楽しみにしておくれ。
第4章 病院はどうなっている
なぎさちゃん、
今日は病院を案内しようね。おじいちゃんは病院内で30年も生活していたので、我が家のように感じられ、何処の病院へ行っても懐かしくてしょうがない。病院を一回りすると良い病院か悪い病院か分かる。良い病院だと嬉しくなるし、悪い病院だとがっかりする。ジョシナ・マシェル病院は玄関を見たところ美しくて、楽しかったが、中を見たら駄目な病院と分かり、がっかりした。どういう風に駄目なのか、説明しよう。
1. 病棟
アンゴラ到着2日目に、看護部次長のマセード氏の案内で病院内外を見学した。マセード氏が自慢のタネにした新館から見る。これは1989年新築で1995年10月から3台あるエレベーターがいずれも故障中。業者に問い合わせたところ、「修理代さえ払えば直る」という。ところが病院では建物改修、機材購入などの支払いが目白押しなので、エレベーター修理に金が回らない。それで患者は階段を上がり降りすることになり、歩けない患者は看護人が担いで行く。この日、1階から5階まで白タイルの階段に真っ赤な血がついていて不気味であった。
5階西側の病棟に入る。中央の廊下をはさんで左右に病室が並ぶ。1室に3つ宛ベッドが置いてあり、1号室から11号室まであるから、33床になるはずだが、マセードは25床と言う。個室があるからであろう。手術後の患者を収用する病棟との説明で、患者が入院していた。処置室は壁から床まで白タイルで覆われて清潔である。手洗い用流し台の上に円筒形の水槽があるので、手洗い用滅菌水製造装置かと感心したら、「断水時用の、ただの水槽」と説明され、がっかりした。処置台に電熱式滅菌機が置いてあったが、故障していた。窓型クーラーも故障中。移動式カルテ台があるだけで、他に家具も道具もなかった。職員もいなかった。
中央にナースステーションがあり、廊下に面したガラス窓にポルトガル語で「ナースステーション」と書かれた大きい厚紙が張られていて、窓のなかが見えないようになっていた。ドアを開けて内部を見たら誰もいなかった。患者だけで職員がいない病棟である。
東側の病棟を見る。子供の泣き声がする。どこで泣いているのかと思って行ってみると、3人部屋の真ん中のベッドに7才ぐらいの男の子が頭に包帯を巻き、しかも、包帯の中央に赤い血を滲ませて座っていた。今朝受傷して入院したに相違ない。階段の血もこの子の血であったろう。「おーい、おーい」とその子は裏声を出して泣いていたが、付き添いもいなければ、看護婦もいなかった。
隣室は小児用の病室で、子供用ベッドが6個置かれ、柵を立てて幼児が入れられていた。そばに母親が座っていた。なかには赤ちゃんにおっぱいを飲ませている母親もいた。賑やかな話し声で満ちていた。マセード氏によると、ここは小児外科でもう1室がある。病棟は外科用でマセード氏は合計25床と言うが、わたしが数えたら39床あった。
ナースステーションを覗いて見たら、なかで看護婦が2人、机にもたれて眠っていた。彼女らは子供が泣いても知らん顔、上司のマセード氏が外国人を連れてきても知らん顔である。マセード氏もまた、部下が昼寝していても知らん顔だ。管理不在を痛感した。
4階を見る。入り口に「循環器科」と書かれており、24床あり、高血圧、狭心症などの患者が7人入院している。医師はベトナム人のディトン先生1人しかいない。この階に付属する検査室には心電計、超音波診断装置があると言うが、鍵がかかっていて見られなかった。
3階は「神経内科」の看板がかかっているが、神経内科の患者はいず、マラリア、肺結核、エイズなどの伝染病患者が入院していた。トイレが詰まっていて悪臭が漂い、我慢出来ないほどであった。54床あるうち、10人ぐらいしか入院していなかった。
2階の東側は中央検査科だが、土曜日なので鉄の格子戸が閉められ、頑丈な南京錠がかけられていた。
西側は「脳外科」で21床のうち術後患者が4名入院してるだけであった。ロシア人医師のミカエル先生が主任で、その下に2人の医師がいるとのことであった。
1階西側は外科、整形外科の救急室。外科は1日平均36名の患者を15名の医師(責任者エドアルド・サントス医師)と40名の助手で診る。外傷、急性腹膜炎、ヘルニアなどが多く、4名の患者が観察入院している。
整形外科は1日35〜40名の患者を医師1名(ベトナム人ディニット医師)、助手8名で診る。
東側は内科救急室で1日120名の患者を医師8名(責任者アンドレ・サムエル・アントニオ医師)、助手8名で診る。観察室には男性ベッド14、女性ベッド12、重症用個室2あり、満員である。病名はマラリア、下痢症、呼吸器疾患などであった。ここに救急検査室が付属しており、2人の検査技師がいて自動生化学分析装置と自動血球計数装置があったが、試薬がないので使用されていなかった。薬剤倉庫もあった。
2.放射線科
2月21日(水)午前9時、放射線科を見る。玄関を入って左側の平屋建ての棟がそうである。ここはニロ医局長もマセード看護部次長も案内してくれない。自分たちで勝手に見ることにした。白衣を着た若い女性技師が3人いたので、渡辺が通訳して、「我々は日本からきた使節団で、病院に医療機材を寄付するために現況調査に来ました。なかを見せてください」と頼むと、喜んで各部屋を案内してくれた。
一番手前右側の部屋には旧式の機械が2台あり、1つは故障しており、1つは小型ポータブル撮影装置でこれが繁用され、1日平均80件も撮影されていた。操作室はなく、高さ2メートルほどの簡単な衝立が置いてあり、技師はその陰に隠れて操作する。技師は散乱する放射線を浴びることになる。腹痛の幼児が連れて来られたので、撮影振りを観察すると、助手が子供をおさえ付け、技師は目分量で機械を子供の腹に向ける。現像したら、フィルムに腹が写っていなかった。撮り直しを2回もしてやっと腹が写った。被写体の狙いがつかないのは、照射範囲を示す電球が切れているからで、スペアがないし、買えないから、いい加減でやっているという。
次の部屋には真新しい機械があった。フィリップス社製の胸部撮影専用の装置である。1992年ルアンダ港到着後、税関に2年間放置され、病院に搬入されたときは動かなかった。導入以来1度も使用されたことがない。
その次の部屋にも昨年12月に搬入されたイタリアIMS社製の一般撮影用装置があったが、これも1度も使用されていない。その隣室にも小型ポータブル撮影装置2台、歯科用撮影装置が1台置かれてあったが、1度も使われていなかった。
一番奥の部屋には、今年1月から使用している一般撮影用の真新しい機械があり、1日20件ぐらい撮影している。
今度は左側の部屋を見て歩く。大きい部屋が1つあり、手前に一回も使用されない断層撮影用の機械があった。使い方が分からないと言う。
部屋の奥には新品のエックス線テレビ付き胃腸透視用診断装置がデンと置かれてあったが、これも使われていない。付属暗室にはアグファ社のフィルム自動現像機があり、これは使われていた。しかし、隣室には未使用のコダック社製自動現像機とポルトガル製の大型高圧自動滅菌機が2台が置かれてあた。
これではアンゴラ政府が、「寄付してくれ」と言ってきた放射線科の機械がみな買い揃えてあることになり、我々はがっかりした。ニロ先生やマセド次長が放射線科を案内しない理由が分かった。
放射線科には管理者がいない。カザフスタン出身の女医ロザリオ先生がいるが、この方はフィルムを読むのが専門で、その他は何も言わない。主任技師には混血のアントニア女史がいるけれど、この人もおとなしい主婦で号令をかけることが出来ない。
「古い小型ポータブル装置ばかり繁用しないで、もっと新品を使ったらどうですか」とわたしが言ったら、2人は顔を見合わせて「そうですねえ」と答えた。
放射線科には医師1名、技師44名が在籍し、2台の機械で1日100件の検査をこなしている。使わない真新しい機械が揃っているのに、日本にもっと機械を寄付しろとは、どういうわけだろうか?また、病院側は我々が放射線科を見るのを嫌がるのは、どうしてか?
新機械を買い揃えた理由。「日本政府に機械供与を要請しておきながら、どうして放射線科の新しい機械を買い揃えたのか?」とアダン事務長に詰問した。すると彼の返答は次の通りであった。
「病院の建物が古くなり、雨漏りがするようになったので、改修工事を開始することになり、真っ先に放射線科の建物を改修した。そのときにエックス線診断装置も新しいものに買い替えたいとの希望が出たので、保健省に相談したら、購入予算が認めらた。そして、保健省がいち早くポルトガルのムンデンテール社というエックス線装置の販売会社に発注した。何故話がとんとん拍子に進んだのかは分からない。
ムンデンテール社が言うのには、「エックス線装置は値段が高いから、スポンサーを探してやる」と、スペインの国際援助団体であるフォエックス・エージェンシーに頼み込んで補助して貰うことになった。アンゴラ政府は必要額の何割りかを払えば良いことになった。
それからムンデンテール社は恩着せがましく言った。「エックス線装置が何台も安く入荷することになったのだから、メーカーと機種はこちらにまかせて貰いたい」アンゴラ政府は異議を唱えなかったので、イタリーのIMSという余り知られていない会社の製品を7台も買うはめとなり、アンゴラのルアンダ市内にある代理店CTC社が荷物の受け取りと据え付け、保守を行うことになった。
昨年12月、機械が到着し、同時にポルトガルから技師が来て据付工事をしたが、終わらないうちに、「クリスマスが来たから」と帰国してしまった。そのうちに大雨が降り、胃腸透視診断用のエックス線テレビ装置が水浸しになって故障してしまい、パーツを取り寄せなければならない事態となる。その間にはポルトガル技師は来ない。それで他の機械の引渡しも済まないことになった。
今はパーツが届き、技師が来るのを一日千秋の思いで待っている。「1月には行く」と言って来ない。「2月に行く」と言ってきたが、まだ来ない。恐らく4月の復活祭が済んだら来るだろうと期待しているところだ。
引渡しが遅れても、新しい機械が使えなくても、誰も気にしない。保健省の役人は安く買えたからご自慢、病院のお偉方は7台も新機種が入ってからご満悦、放射線科のスタッフも新品が使えると楽しみ。しかも患者は何も知らない。子供を泣かせて何回も撮り直しても文句を言わない。胃腸の透視診断が出来ないため、十二指腸潰瘍が診断されず、穿孔して初めて分かったなどという事件があっても誰のせいにもしない。皆気楽に考えているようだ。
3.病院建物の外側
2月19日(月)本日から病院職員がストに入ったが、プラカードもピケもない。組合員らしい男が玄関に3人ほど立っていて、訪問者をチェックしていたが、我々調査団員は通してくれた。放射線科では緊急患者のエックス線検査をしていたし、救急部も平常通りの活動をしていた。
マセード看護局次長の案内で建物の外側を視察した。
中央廊下の途中から左手、つまり東側の庭に出る。そこには平屋建ての大きい建物があり、患者用厨房であった。周囲に大勢人が集まっていた。それは病人用の食事を病棟へ運ぶ人のほか、おこぼれを貰おうと集まってきた難民であった。
人混みをかき分けてなかに入ると、そこは調理室で、広い部屋の壁と床を白い清潔な磁器タイルで覆い、中央に煮炊き用のガス台があり、その上に四角いフライヤーや丸い炊飯釜などが並んでいた。壁際にもスープ・ケトルがあり、奥には肉・魚・野菜などを切って調理する調理台や大型冷蔵庫もあった。スタッフはユニフォームがなく、ピンクのテーシャツや白いブラウスなど思い思いの服装をしていた。
南側の庭に出ると正面左手にバラック建ての付き添い人用厨房があり、右手に倉庫がある。中央に焼却炉があったが、故障中とのことである。この厨房と倉庫は病院の建物に比べると不釣合いな粗末な建物で、間に合わせのようであった。周囲には戦争難民が住んでおり、付き添い用厨房は難民のための給食センターであった。焼却炉は使われない代わりに市のゴミ収集車が回収に来て運んで行くと。
患者用厨房の地階はボイラー室と洗濯室になっていた。前室のボイラー室には真新しい縦型円筒形ボイラーが3台並んでおり、そこから銀色に光ったチューブが立ち上がり、1本にまとめられて1階の厨房へ行っていた。調理用の蒸気を送っているのである。
奥の部屋は2つに区切られ、手前には6台の新しい洗濯機が並んでいる。それらは大中小と3種類あり、1種類について2台づつあった。すべてイタリー製である。大型が1台故障していた。奥の部屋へ行くと、大型ドライヤー1台、大型アイロン台1組、小型アイロン台5組が並んでいたが、すでに作業を終了して誰も人がいなかった。午前11時45分であった。
更に奥へ進むと、そこは汚れ物を受け取ったり、仕上がったものを出したりする部屋で、右側の棚にきちんと畳まれたリネン類が収められ出庫を待っていた。その先は出入り口で、ここから洗濯物の搬出入がなされる。この部屋に数人の女性スタッフがたむろしており、出入り口の横にしつらえられた台所で昼食の煮物をしていた。ガス台に黒い鍋が載り、フツフツと湯気をたてていた。食べ物の匂いが人を陽気にさせるのか、女たちは明るい声をはずませてお喋りしていた。
緊急用発電機を見に行った。放射線科の建物が東側に突き出たところが崖になっていて、崖下にコンクリート箱にトタン屋根を載せた小屋が出来ており、その中に発電機があった。戸口の金網を通して黒い機械を覗き見ることが出来た。マセード次長の説明によれば、「始動すると騒音がひどいので、病棟から遠ざけ、崖下に設置した」と言う。その代わりこれは自動でないから、停電した場合には電気技師が常駐する部屋から離れているので、技師が来て発電機を始動させるまで10分や15分はかかってしまう。「手術中のときは困るだろう?」と訊くと、「これは一般病棟と放射線科用の発電機で、手術室や集中治療室用の発電機は別にある」との返事であった。
「それでは手術室・集中治療室用の発電機を見に行こう」と言うと、それは病院本館の西側の窪地にあった。ここは電気技師たまり場から更に遠く、停電発生から発電機始動まで20分はかかる。その間に助かる人も助からなくなってしまう可能性があった。夜間で電気技師が1名しかいないときは、手術室・集中治療室の緊急発電を優先するだろうから、病棟・放射線科の送電はもっと遅くなる。つまり30分以上はかかることになる。人命を軽視した人が設計したとしか思えない。
2月20日(火)午前、事務長アダン氏に頼んで電気技師アルベルト氏を紹介してもらい、変電所を案内させた。これは団員の岩崎が、「電気系統を確認しないと、医療機材をどのくらい使えるかどうか、判断出来ないから」と主張して気が乗らない事務長を説得して実現した。事務長はどういう訳か非協力的で、岩崎が、「病院の配線図を見たい」と言っても、「そんなものはない」と断った。「ないはずがない。ない振りをしている」と岩崎がぼやいた。配線図がなければ技師は故障の修理が出来ない。
変電所は患者用厨房の北側にあった。中央廊下から伸びてきた整形外科病棟の東端に下屋として作られた小屋がそれであった。2つの部屋に区切られ、手前の大きい部屋には配電盤、奥の小さい部屋にはトランスが置かれてあった。技師アルベルト氏の説明によると、「この施設は外から来る電圧を半分に下げる機能しかない。つまり外からいつもは400ボルトの電流が来て、これを220ボルトに下げるが、600ボルトが来た場合には300ボルトにしか下げられない。それでときとして高圧電流が院内に流れて医療機器の故障の原因になる」とのことであった。それでは日本からどんなに優秀な医療機械を寄贈しても直ぐ壊れてしまうではないか?渡辺に通訳して貰うと、アルベルト氏は肩をすくめて、「ボクの責任ではない」と言い訳した。機材供与の前に変電所の改善からしなければならないことが分かった。
なぎさちゃん、こんなにひどい病院がこの世にあるかとおじいちゃんは憤慨のしどうしだったよ。1言で言えば管理者不在だ。建物から言えばエレベーターが壊れっぱなしで直せない。それなのに病棟の改修工事をしたり、エックス線装置を買ったりしている。つまり予算があるのに、壊れたエレベーターを直せないのは何故か?優先順位をつける管理者がいないからだ。
変電施設もおかしい。電流をいつも220ボルトにして流すレギュレーター設備を買わなければならないのに、怠っている。そのために医療機械が故障してきたのだよ。
結論はまだまだ、これからもっと調べる必要があるからね。
第5章 保健省訪問
なぎさちゃん、
今日は保健省へ行ったときの話をしよう。アンゴラ共和国の保健省はおじいちゃんたちにとって大事な役所なのだよ。というのは、今回の要請はアンゴラ政府から日本政府に対して国立病院の医療機材を寄付して欲しいと言ってきたので、窓口はアンゴラ政府の保健省になる。保健省とはどういう役所か、どういう人々がいるところなのか、それを書こうね。
保健省の建物は岡の上にあり、麓に2人の警官が立っていて検問する。運転手が、「日本の使節団が乗っている。保健省へいく」と言うと純朴そうな若い、痩せた警官が車内をじろじろ観察した後、「行っても宜しい」と通してくれる。保健省はベージュ色に塗られたコンクリート2階建ての小さい建物で、勝手口のような狭い入り口が玄関である。受付も、窓口もない。
渡辺が通りすがりの女性職員に、「日本からきた使節団です。しかるべき人に紹介してください」と声を掛けると、いきなり怒鳴られた。「何を言ってるの!予約もなしに、誰に会おうというの!」と黄色い声で叫んでいる。黒い髪の毛をゆるやかにカーブさせ、ミニスカートを履いたスマートな黒人女性であった。成田空港からパリ経由、アンゴラまでの長旅を終えた日の午後だったので、予約する時間がなかった。日本外務省からアンゴラ保健省に連絡が行っていたと思ったのが、我々の間違いであった。
2階の会議室で30分ほど待たされて、結局その日は誰にも会えず、明日の午前10時半に次官に会う予約を取り付けた。
話は横道にそれるが、保健省に来る坂の途中に2階建ての瀟洒な住宅があり、外階段とベランダが丸見えで、そこに10代の少女たちが立っておしゃべりしていた。背中と手足が露出する衣服を着ていた。私は初めてのアフリカ旅行なので見るもの聞くものすべて珍しく、目を皿のように見開いて観察していた。特に女の子の頭髪の編み方、派手な色合いの服、お尻が極端に突出した体型などを眺めていた。すると五代儀が説明してくれた。
「髪の毛の編み方は千差万別だが、一番多いのは機雷状に編む方法。これは頭を20等分して、その1つの分野の髪の毛を集めて1本の束にまとめる。そして色のついた紐でぎりぎり巻きにして直立させる。従って見たところ髪の毛の束が20本ほど立ち上がって機雷のように見える。機雷と違う点は歩くたびに束がゆらゆら揺れることだ。この目的は髪をきつく引っ張って伸ばすことである。
つまり縮れた髪の毛を西洋人みたいに直毛にしたいために、手が込んで面倒くさい機雷編みをするわけである。これはたいてい母親か姉妹が時間をかけて編み上げてくれる。これには時間と忍耐が要るので貧乏人の家庭では出来ない。
少女時代をこうした髪型で通し、高価な薬品の力も借りて出来上がるのが緩やかにカールした夢のヘアースタイルである。役所や会社のオフィスで働いているOLはこういう髪の毛をしている。それは彼女らのステータス・シンボルである」
保健省へ上がる坂の途中にある家には加工中の髪型の少女らがたむろしていた。恐らく良家の子女であろうと思われた。
翌日、約束の10時半に会議室で待つ。クーラーが止まり、蒸し風呂のように暑い。わたしはトイレへ行きたくなり、廊下に出て職員に、「トイレは何処ですか?」と訊いたら「こちらです」と先に立って案内してくれた。廊下の突き当たりにあるトイレは鍵がかかっていて駄目。鍵を開けても停電中でなかが真っ暗だから使用できないという。「こちらへ」と次官室へ案内する。職員がなかへ入って行き、だれかと話した後、顔を出して、「許可を得たから、どうぞ」と手招きをする。なかに入ると正面のデスクに次官らしい、黒い背広を着てネクタイをつけた、恰幅の良い小柄な男が座り、その前の2人の客と話していた。「失礼します。トイレをお借りします」と断ると、次官はにっこり笑い、後方のドアを指差した。そこは個人用の化粧室で、化粧品、石鹸、歯磨きなどに加え、予備のネクタイが何本か置いてあった。わたしの後についで、数名の使節団員がトイレを借りた。
この日、日本から到着した使節団は8名、外務省の職員を団長に、国際協力事業団から1名、国際医療センターの医師1名、通訳1名、それにわたしたち民間コンサルタントが4名であった。
40分も遅れて次官フランシスコ・フェンデス医師が6名の保健省スタッフを連れて会議室に入ってきた。団長の寺尾が日本語で挨拶。渡辺が通訳。その間、次官は落ち着かず、キョロキョロ辺りを見回している。次いで次官が挨拶。
「前回、日本使節団が来て話し合いをしました。皆さんにカウンターパーを付けるので、質問や相談をしてください」と短いが、要点を得た挨拶であった。我々の前にも使節団が来て話し合ったことを知る。どのような話し合いをしたか、我々民間コンサルタントは知らされていなかった。日本外務省の秘密主義による。
当日午後3時、保健省スタッフとの会議。計画局長モルガド・ポーロ医師の説明。
「保健省直轄の国立病院としては、ジョシナ・マシェル病院のほかにアメリコ・ボアビダ大学病院、小児病院、精神病院、産院などがあり、近日中に賃上げを求めてストライキに入ります。ジョシナ・マシェル病院では手術室を改修工事中で、日本からの機材が到着したら、手術室にいれたいと思っています。病院経営は自主にまかせており、予算や資金の支払いは病院に任せています」
国立病院のストは2月19日から無期限で、組合側は、「現在の給料を2倍にあげてくれ」と要求している。というのは医師の月給20ドル、看護婦・技師が5ドルとウソのように安いので値上げをしなければ暮らして行けない。2倍でもたいしたことはない。50倍ぐらいにしなければ世間並みの生活は出来ないであろう。
「ジョシナ・マシェル病院の改修工事はいつごろ終わりますか?」と日本側の質問に対してモルガド局長は、「未定です。日本からの供与機材が到着すれば、早期に工事を終わらせます。今は仮設の手術室を使用していますが、充分な機能が果たせません。病院の予算執行は病院側の自主的な運営に任せています」と答えた。これはニロ医局長の説明と違う。ニロ先生は、「予算の執行に保健省の同意が要る」と言っていた。
日本側が用意してきたスライド上映があった。これはスペイン語の説明つきであったが、ポルトガル語が分かる保健省スタッフにはスペイン語も分かるとのことだった。折りからの西日で、しかも部屋に暗幕がなかったから写りは良くなかった。スライドの内容は日本政府の無償資金協力についての解説であった。
このスライド上映は非常に重要で、これから議事録を作り、日本側は無償資金協力についてスライドを見せて充分に説明し、アンゴラ側はこれを了承したと記録しなければならなかった。将来作業を開始し、続けて行く上で、アンゴラ側が文句を言ってきても、日本側は、「それはスライドで説明し、議事録にも『了解した』とサインしたではないか」とつっぱねることが出来る。そのためのスライド上映と議事録作りであった。
それから会議録作成についての議論があり、日本側が英語を主張するのに対し、アンゴラ側はポルトガル語に固執した。結局英語とポルトガル語で記録することになり、渡辺に負担をかけることになった。彼は日中は使節団について回り、通訳をしなければならないから、会議録の作成は夜になる。ワープロに打ち込んでいると、停電で文章が消えてしまう。睡眠不足が祟って帰国後発病して入院してしまった。入院したのはもう1人、国際医療センターから来た椎名医師もいた。
別の日には保健大臣マルチニア・エパランジャ医師に会った。小錦に似て大兵肥満、顔の大きいタコ入道みたいな人で、ヤツデのように大きい手を振り回して演説した。彼の話題は漂流して、一ヶ所にとどまらず、内容は空虚であった。国家の開発計画とか、保健省の長期計画などを話してくれるのかと思ったら、何もなかった。
初代大統領のアゴスチニョ・ネトーも医師であったが、謙虚な人で、相手がしゃべり終わるまで聞き、相手が喋り終わったら、自分が話し始めるという。大臣も次官もネトーの側近として接していたのにかかわらず、人の話を聞かず、自分の話も下手である。
アンゴラ政府の問題は要路に良い人がいないことだと痛感した。
なぎさちゃん、人間はうわべだけじゃ駄目ということが分かったよ。縮れ毛を真っ直ぐにしようと懸命の努力をしても、外国から来た客を理由も聞かずに怒鳴るOLではいけない。大臣のような偉い人でも人真似ではいけない。心から人の言葉に耳を傾ける態度が必要なのだ。うわべを飾っても直ぐ分かる。今日は良い教訓を得た。
なぎさちゃんも心を大切にしなさい。
第6章 街角にて
なぎさちゃん、
今日はとっておきの面白い話をしてあげるよ。仕事をはなれて見た町のようすなのだ。どういうことになるやら、それは読んでのお楽しみ・・。
1.カーニバルの日
町はうっかり歩けない。50メートルおきに警官が2人づつ立っていて、外国人とみると職務尋問をする。カメラを持っているとひねくり回し、「要塞の写真を撮ったろう」と難癖をつける。相手は栄養不良の童顔の若者だが、カービン銃をぶらさげているから無駄な抵抗は出来ない。「そんなものは撮っていない」と頑張ると返してくれる。彼らは賄賂が欲しい。給料が安くて食うにもことかくからだ。
カーニバルの日、わたしはタムタムの音に釣られて外出した。すると、向こうから岩崎と渡辺が歩いてくる。「もう行って来ましたか?」と声を掛けると、「とんでもない」と機嫌が悪い。渡辺が、「5分おきに警官につかまって難癖をつけるので、歩けやしない」とぷりぷり怒っている。そしてわたしに「行かないほうが良い。ここは外国人が歩けないところです」と忠告した。岩崎も、「こんな町はこりごりだ」と言い捨ててホテルに戻った。
わたしがホテルに戻り、部屋の窓から見下ろしていると、三々五々と若い人たちがやってくる。男女とも、肩幅が広くて腰がしまって逆三角形のからだをしている。腰は細いけれど、お尻は後に突出してパンツがはちきれそうに膨らみ、歩くたびに左右の臀筋が盛り上がる。足はふくらはぎがないように細い。そして両手を振り、堂々と闊歩する。あの人たちのあとをついて行き、カーニバルの踊りを見たいと思ったが、渡辺たちが、「止めておけ」というものだから、涙を呑んで部屋に閉じ篭っていた。
渡辺は昨年もアンゴラに来ている。そのときは2回も警官に金を巻き上げられた。1回目は5ドル、2回目は50ドル。アンゴラ外務省に訴えたら、「そういうときは教えてくれ」というが、公衆電話もないのに、どうやって教えたら良いのであろうか?
2.市場にて
土曜日の午後、ロクサンテーロ市場へ行った。ルアンダ港東方の緩い斜面一帯の6キロ四方の空き地に無数のテントを張り巡らせ、レンタカー運転手のマテウスによれば、アフリカ最大のマーケットである。数十台ものトラックに乗って人々がやってくる。農作物を入れた麻袋を担いでくるので、市場で売って日用品を買って帰るようである。
市場に近付くと、蜂の巣を突っついたような、「わーん」という群集の発する声が耳を打つ。いろんな人が車の窓から首を突っ込んで物売りをする。マニキュア、口紅、オシロイ、ファウンデーションなどの化粧品を手にした男がくる。「黒人がどうしてオシロイが要るのだろう?」とわたしが独り言をいうと、渡辺が、「黒いなりに、オシロイを塗って楽しむ」と教えてくれた。「マラリアの薬はいらないか?」と少年が言う。「ドルを買いたい」と両手に札束を持って男が言う。1ドル4万8千クワンザである。「ホテルで替えるのと同じだ」と五代儀がわらう。
車が高台にさしかかり、市場の全貌が見渡せた。マテウスが後を振り返り、「この辺で降りてみるか?」と訊く。渡辺が、「写真を撮りますか?」と訊いた。わたしは写真を撮りたくてうずうずしていたから、オリンパス・カメラをビニール袋に忍ばせて車外に出た。
道路の先にテント小屋が建ち並び家具を売っている。その先はテントの波が続き、はるか彼方に紺青色の大西洋が光って見えた。わたしはカメラを取り出してパチパチと市場の写真を撮った。ふと気がつくと隣に五代儀が現れ、大きな1眼レフを抱えて写真を撮り出した。すると、小柄な警官が来て五代儀に何やら話しかけた。「ここは撮影禁止だ」と言っているようである。「これはやばい」とわたしはこっそり後にさがり、立ち往生していた大型トラックの陰に隠れ、自分の車に戻った。渡辺が、「警官が通って行ったので捕まると思った」と言う。
やがて五代儀も戻ってきた。「さすが国際協力のベテラン!警官を巻いてきたな」と思った。その途端、童顔の警官が車のガラス窓に顔を押し当てて何やら怒鳴った。
マテウスが車を発進させた。ところが、1車線の道路が渋滞中で、一寸刻みにしか進めない。それで、警官も車と一緒についてきてマテウスに話しかける。ポルトガル語のようだ。マテウスも何かしゃべっている。「我々を弁護しているな」と思った。しかし、警官はスッポンのように食いついて離れない。マテウスは窓を閉めて知らぬ顔を決め込むが、まずいことに道路は警察署前に通じていた。警官が離れたので、「それっ、今のうちに逃げよう」と叫んだが、車がいっぱいで前に進めない。そのうち、もう1人の警官を連れて来て、2人で、「車を警察につけろ」と命じた。もう逃げられないと観念したマテウスは車を降りて警察内に入って行ったが、すぐ戻ってきて、「みな、警察に来るように言っています」との報告であった。
道端に簡単な門柱があり、その奥のコンクリート平屋建ての建物が警察署であった。そのなかに入るのかと思ったら、そうではなく、建物の左手に回り、裏手の家畜小屋のような小さい汚いレンガ建ての建物に連れて行かれた。「ははーん、ここで脅かして金をふんだくろうというのか?」と思った。
3畳ぐらいの狭い暗い部屋にデスクを置いて精悍そうな、肥った丸顔の中年の警官が座っていた。その前にもう1人の警官が座り、戸口に先ほどの若い警官が立っていた。運転手のマテウスが一生懸命弁護した。渡辺はポルトガル語が分からない振りをして、英語で「我々は日本政府の使節団で、ジョシナ・マシェル病院のために調査にきた」と言ったが、あまり通じないようであった。デスクに座った中年の警官が、「スケジュール表を見せなさい」と言う。「それはホテルにある。ついてくれば見せます」と五代儀が答えた。
「カメラを見せろ」とデスクの警官が命じた。わたしは袋から出して見せながら、「ボクたちは国際協力(コーポレーション)で来ました」と言った。すると、警官が、「コーポラションか?」と訊いた。それは英語とポルトガル語と共通する言葉であった。「そうです。そのコーポラションです」と言うと、彼は、「それじゃ、いいだろう」と見逃してくれることになった。「市場は撮影禁止だ」と言って、「帰れ」とばかり手を振った。
無罪放免になった。渡辺が、「あれは署長だ。話のわかる人がいて良かった」と言う。彼は前回来たとき、市場の写真を撮っていたら、警官が来て、その場で50ドル取られた。そればかりでなく、カメラを持ってない人も一律に50ドルづつ取られたという。
サングラスを売る男が窓から首を入れたので、五代儀がマテウスに買ってやった。一生懸命に我々の弁護をしてくれたからである。途端に機嫌が良くなったマテウスは、「ダイヤが欲しければ買ってきて上げます」と言った。この国はダイヤの産地でかっては年間100万カラットを輸出し、1億ドルも稼いだ。今はダイヤ鉱山が反乱軍に押さえられ、正規の輸出ルートに乗らず、ここの市場に流れ込んでいる。だから、ウソのように安く入手出来る。「アンゴラへ行ったらダイヤを買って来い」と友人が言った。
しかし、我々はダイヤとガラスの見分けがつかないド素人だから騙されたって分からない。大損をしないよう、マテウスの申し出を断ることにした。
3.アンゴラの文化
「市場には人間の子供も売っているぞ」と木下さんが言った。レストラン・ピントスで食事しているときであった。彼は昭和16年東京生まれ、商社の出張員としてアンゴラに13年間も住んでいる。前回使節団が来たとき、渡辺も通訳として一緒に来たので顔見知りである。前回は外務省の官僚だけで来たので商社の世話になった。しかし、今回は我々のような民間人が来ているので、官僚と商社の密着振りが知られては困ると言うので、外務官僚の団長がわざわざ商社員との接触を避けた。お蔭で保健省始め、官庁や国際出先機関との連絡が取れず、苦労した。
昨日、偶然、路上で木下と渡辺が鉢合わせしたので、「やあ、やあ、来ていたのですか!会食しましょう」ということになり、レストランで昼食をとることになり、一緒に日本人シスターともお会いして一般の人々の暮らしを教えて貰う事が出来た。
木下によれば、
「1975年ポルトガルの植民地だったアンゴラ共和国が独立を宣言し、ソ連の指導により社会主義政権を確立するまで、部族の間では人身売買と奴隷制度が残っていた。辺鄙な村では人を食う習慣もあった。ところがその後、アメリカの支援を受けた反乱軍との内戦が長引き、ソ連の指導力が減退し、その上、社会主義統制経済がうまく機能しないので、5年前から市場経済を導入した。そのために各地に市場が出来て、首都ルアンダにはロクサンテロのような大市場まで出来た。しかし、内戦と旱魃のため、インフレが亢進し、飢餓状態に陥った地方が出来たので、子供を売って飢えをしのぐ家族が生じた」という。
「不老長寿の薬もある」と木下は喋る。バオ・デ・カビンダという名前の木の皮をウイスキーに浸けておき、1ケ月してから飲むと強壮剤になる。どういう成分があるのか日本へ送って調べて貰っているが、まだ結論が出ない。
「ところで木下さん、アンゴラのどこが良くて13年も住んでいるのですか?」と訊いた。彼は日本に帰れば安全で便利な生活が待っているのに、何だって毎日停電し、隔日に断水し、知安が悪くてマラリアが蔓延し、それに人々の腋臭が耐え難い国に好き好んで住んでいるのであろうか?
「ボクは釣りが好きでね」と彼は答えた。毎晩といって良いほど大西洋の砂州や、河口部に出掛けて夜釣りをする。バルゴと呼ばれるタイに似た大きい魚が釣れる。その他イシモチも釣れる。餌はイワシやモンゴ・イカをつける。魚は幾らでもいると言う。これには五代儀も同感で、彼が砂州のレストランに食事に行ったとき釣り人がいたので見たら、次々と大きい魚がかかってくるのを目撃し、「ここは釣り人の天国だ。次回来るときは釣り道具を持参しよう」と思ったという。
道理で車で走っていると、1メートルぐらいある魚を手にさげて売っている人を見る。大きな伊勢エビをぶらさげている人もいる。漁師か、普通の住民か分からないが、ドライブ中の人に売りつけようとしている。ここは魚の宝庫なのであろう。
セント・ポーロ市場という公営市場が市内にある。2階建て鉄筋コンクリートの体育館のような大きい建物である。1階には食料品売り場があり、干し魚、根ショーガ、カシューナッツ、パーム油などアンゴラ特産物のほか、普通の野菜・果物が売られている。奥の方には民間薬の売り場があり、樹皮、木根、薬草などがところ狭しと並べられている。なかでも「ムクンビ」と呼ばれる樹皮は貧血に効き、消毒薬としても使われる。「ンブルトト」という草の根はマラリアやウイルス病に効く。肝臓にも良い。「バオ・デ・カビンダ」という樹皮はウイスキーに浸けておき、飲むと強壮剤、不老長寿に効くという。
呪い師もいて、男の子が10才ぐらいになると成人の証拠としてオチンチンの包皮を切り、いわゆる「割礼の儀式」をやる。この時薬草を浸した液をつけると麻酔の働きがある。また血止めに効く薬草もある。それでも子供は恐怖と痛みのために泣き騒ぎ、暴れるので数人の男が押さえつける。それから鬼のような恐ろしい形相のお面をつけて子供を脅かしておとなしくさせる。これはカレルウアと呼ばれるお面である。
木彫りに長けた部族がいて、チョクウエ族と言い、人口は約60万人。アンゴラ北東部のルンダ、コクウエというサバンナに住んでいる。そのなかにソンギという家族がいて先祖代々木彫りを生業としている。儀式用のお面のほか、人物や動物などの像も彫り、なかには半抽象的な芸術味豊かな彫刻も制作する。この部族は商売はせず、他の部族のキコンゴ族が商売の才に恵まれているので仕入れては町に持って行って売る。古いものに見せるために地中に埋めたり、特殊な薬品を塗ったりして加工し、骨董品として売ることもある。
ルアンダ市内から南方のムスロイ湾の方へ向かって16キロ行った道路際にフトンド市場という名前の民芸品市場があり、木彫りの男女立像、坐像、アクロバット像などが売られている。ユーモラスなものが多く、黒い塗料を塗ったもの、赤茶色の塗料を塗ったものなどがある。また象、鹿、キリンなど写実的な木像にこまかい彩色を施したものもある。儀式用の仮面、蓋つき小物入れ、小テーブルなどもあり、手のひらに載る小さいものから10数キロのものもある。
ブロンズ像は細長い半抽象的な人物立像が多い。ピカピカに磨いたもの、部分的に着色したもの、緑青が生えたものもある。
象牙の彫像は素朴なものが多いが、偽物があるという。貴石製品は瑠璃、サンゴ、琥珀、マラカイト・グリーン、トルコ石などのネックレスがあるけれど偽物が多い。油絵を沢山地に並べて売っている。アフリカの人物や、景色、それに抽象画など、8号が20ドルと安いが、芸術的に感心しない。
アンゴラが世界文化に貢献したのは音楽である。サンバはキンブント語で「祈り」を意味し、タンゴは「木の枝」を意味する。ブルースは同部族の語り部の音調からとった。キンブント族は人口2万5千人、アンゴラ中部のルアンダ流域に住む。この民族は音楽の才能に恵まれ、奴隷としてブラジルへ連れて行かれ、サンバ、タンゴ、ブルースを広めた。それが再びアフリカに里帰りすることになった。ジャズはブルースに速拍子(ラグタイム)を加え、米国ルイジャナで黒人が編曲したもの。アンゴラが生んだ音楽家のなかにロドリゲス・ンドンゴがいる。彼は1930年代に、アンゴラにルーツをもつブラジル音楽バイアの演奏で有名になった。また1940年代のフォークソング・ライターシンガーのマヌエル・ドス・パンスや、アルバロ・カルダスなどがいる。
スーパー・マーケットもある。規模と言い、品物の豊富なことと言い、品種と言い、東京や千葉にあるスーパーと同じである。
違うのはレジである。インフレが亢進したあげく、100円が45,000クワンザとなり、紙幣は1,000クワンザしか流通していないから、札束をやりとりすることになる。例えば1,000円の買い物をするには、450,000クワンザを支払い、そのために1,000クワンザ紙幣450枚を出さねばならない。札束はレジに入り切れないから、係の女性が膝の上に載せている。白い不透明なビニール袋に詰まった札束は丁度母親に抱かれた赤ちゃんのように見える。多量の札束は手で数えられないから、数える係の女性がいて、レジ係が、「これを数えてください」と言うと、袋を持って行き、機械にかけて数える。レジは20ヶ所あるが、紙幣計算機は5ヶ所にしかない。だから、客は紙幣を数えるのを待たなければならない。物価は円に換算すれば、オレンジ1キロ500円、大瓶のミネラル・ウオーター1本100円だから高くはない。しかし、公務員給料は1ヶ月5ドルというから、ここの人の生活は大変である。
しかし、このような大型店が市内には幾つもあり、何処も潰れず、スタイルブックから抜け出たような地元のご婦人方が買い物に来ているのだから、「この国はどうなっているんだろう」と不思議に思わざるを得ない。
なぎさちゃん、
おじいちゃんはジョン・バンヤンという人が1684年に書いた「天路歴程」の一節を思い出す。それはこうなんだよ。「荒野の外へ出たとき、2人はやがて、その前に『虚栄』という名の町を見た。また、この町には『虚栄の市』と称する市がたっている。その市というのはあらゆる種類の虚栄が売られるところであり、たとえば家だとか、土地だとか、地位だとか、・・・・、子どもだとか・・」
アンゴラの市に売られているのは、虚栄だろうか?恐らくそれは生きてゆくために、必要なものなのだろう。虚栄を売るのはかえって日本だった。それはこれからだんだん分かってくる事実なのだ。
第7章 アンゴラはどういう国か
なぎさちゃん、
今日はアンゴラ共和国について書き送るよ。前回はおじいちゃんは弱気になって仕事がうまく行かないと、ぼやいていたが、その後気分が良くなって、今来ているアンゴラとはどういう国か第3者の目で見るようになった。それで今回はこの国のことを書くことにする。
1. 王国時代
1482年、ポルトガルのジオゴ・カウンという男がやってきて、アフリカ西海岸南部に大きな河口があるのを発見し、舟に載せて運んできた十字架を岸辺に押したてた。この川は地元ではコンゴ川と呼び、アフリカでも大きい川の1つで、西岸に流れ込む数少ない川の1つであった。この川の流域にコンゴ王国があった。これがアンゴラが西洋の歴史に登場する始まりである。
この時期までに王様が4代続いていたことが判ったが、それ以前のことは分からない。
コンゴ王国は祭政一致で、王様のからだに神が宿って国を栄えさせると信じていた。王様が元気な間は国が栄えるが、病気になったり、老衰すると神は王を離れ、国が衰亡する。それで民は王様を殺し、王の姉妹の息子のうちから力のあるものを選んで次の王様とした。
コンゴ王国の南にはンドンゴ王国があり、ンゴラと称する王様がいた。アフリカにはンで始まる言葉が多い。ンガングラという苗字や、ンドザという名の人がいたり、ンギヴァや、ンゼトーという地名がある。西洋人にはこれが発音しにくいのンゴラはいつしかアンゴラになった。
ちなみにアンゴラ兎は日本人にもなじみのある名前だが、トルコの首都アンカラの昔の名前がアンゴラだったので、これから来ている。本来はアンゴラ羊が中世にイタリアに輸出され、良質の羊毛製品を作るもとになったので知られていた。このアンゴラ羊に似て毛がふさふさした兎の改良品種が出来たのでアンゴラ兎と呼ばれたのだが、日本では羊より兎の方が有名になってしまった。
現在のアンゴラの東側奥地にモノタバ王国があり、その版図は東海岸にまで及び、石の建造物を残している。ジンバブエの国名は、「石の家」という意味で、1867年に発見された巨大な建造物の遺跡から由来している。同じような石の遺跡がアンゴラにもあり、同一文明圏に属していたことを物語る。
ポルトガル人は母国の港町リスボンに似た土地を発見して喜び、ンドンゴ王国のンガラ王の許しを得て、ここに植民地を作った。これが今のアンゴラ共和国の首都ルアンダの始まりである。最近部族紛争で有名になった「ルワンダ」は同じアフリカにある別の国の名前であり、ルアンダ市と混同しやすい。
ポルトガル人は始め、金銀を求めて来たが、そういうものはなく、奴隷商売が利益になると悟った。当時のアフリカの諸王国には奴隷制度があったから、同国人を奴隷として西洋人に売るのに抵抗感がなかった。そこで諸王や勇士らが奴隷狩りと奴隷の海外輸出に協力した。
奴隷の代金として西洋人が払うのは主としてベネチア産のガラス玉であった。これを諸王と勇士らは装身具として珍重したのである。それは今でこそ骨董価値があるけれど、当時は西洋ではたいした価値がなかったものだ。つまりポルトガルの人たちは二束三文のガラス玉で奴隷を買って行き、ヨーロッパや米大陸で高く売りつけて暴利をむさぼったのだ。
やがてポルトガルは武力により、これらの国々を属国とし、しまいに植民地にしてしまう。その前にンドンゴ王国の女王はオランダと組んでポルトガル人を追い払おうとしたが、ポルトガル軍に負けてしまった。
ンドンゴ王国のルアンダにはリスボンの河口に似た砂州と海岸に囲まれた水路があり、天然の良港となっていたので、ポルトガル人はそこの海岸に政庁と税関を建て、大西洋を見晴らす岡に病院、学校、住宅などを建てて植民政策の根拠地としたのだ。
2.住民の特徴
現住民はメラノ・アフリカ人と総称される黒人で、皮膚の汗腺が多くて沢山の汗を発散して体温を下げるので、熱帯地方に住むのに適した生理構造を持っている。頭髪は小毛鞠状に縮んでおり、頭皮にくっついている。頭蓋骨は前後に長い長頭で、顎骨が前方に突き出ていて、突顎と呼ばれる。手足は細長くて、ふくらはぎがないので、カモシカのようなスリムな足をしている。
アンゴラに住む人々の主流はバンツー族と呼ばれ、そのなかにはヘレロ、オビンブンド、オバンボ、チョクウエ、バゴンゴ、キンブント族などがいる。皮膚の色は比較的明るく、スーダン地方の人たちが漆黒なのに比べて、それほど黒くない。また、マサイ族などに比べてそれほど背が高くないし、突顎も極端でない。顔立ちはノーブルな方である。しかし、混血が進んでいるので、中には背が高かったり、色が真っ黒な人もいる。男子の成人式として割礼を行い、クラールと呼ばれる円形の家畜囲いの周囲に小集落を作って住むのが共通している。
ヘレロ族はもともと数100万人もいたというが、王国同志の戦争で殺戮にあい、その上奴隷に売られ、そして1904年のドイツ軍との戦闘で大量虐殺され、今では数万人に減ってしまった。重い金属製の飾り玉のネックレスや、ダチョウの卵で作った飾り帯を身につけるのが特徴。父と母の両方の家系を大切にする二重出自制を残しているのも特徴である。現在はキリスト教徒が多く、アンゴラ南部とナミビアに住んでいる。
オビンブンド族が一番多くて約200万人いる、アンゴラ中西部のベンガラ高原から南部にかけて住み、主食はトウモロコシ。20世紀初頭まで奴隷制度を持っていた。
オバンボ族は約20万人。アンゴラ南部のクネネ川上流のアカシアが点在する白砂の広野に住み、モロコシ、ヒエを常食とする。
チョクウエ族は約60万人。アンゴラ北東部のサバンナに住んでいたが、多くの人々は戦乱を避けてザイール、ザンビアに移住した。木彫り、金属工芸などに秀でている。
バコンゴ族はコンゴ王国直系の種族で約70万人。アンゴラ北部、ザイールなどに住み、ヤムイモ、サツマイモ、バナナ、トウモロコシなどを食べる。
キンブント族は約2万人。アンゴラ中部ルアンダ州に住み、牛、ヤギ、鶏などを飼う。牛はステータス・シンボルとされ、食べない。カッサバ、トウモロコシを常食とする。20世紀まで奴隷制や、人肉食の習慣があった。
20世紀になってアンゴラにはダイヤモンド、金、銀、銅、鉄鉱石、石油などの天然資源が豊富にあり、その上、コーヒー、小麦などの農作物にも向いていることが分かり、ポルトガル始め、欧米の資本が流入して産業が興り、現住民は労働者として働かされた。奴隷制度が廃止されてからも、「契約労働」と称し、借金のカタに連れて来られた人々が強制労働につかされた。
3.民族主義運動起こる
第2次大戦終了後、民族自決が叫ばれ、インド、フィリピン始めアジア、アフリカで植民地だった国々が独立すると、アフリカのポルトガル植民地でも独立を目指して民族主義運動が始まった。
アンゴラでは1950年代に教養を身につけた人々が独立を求めて、秘密結社を作り出した。これには主として看護人が活動した。彼らには比較的行動の自由があったからである。
1951年、アゴスチニョ・ネトーはアンゴラ出身のリスボンの医学生だったが、官憲に捕まり、投獄された。当時は、「私はアンゴラ人だ」と言っただけで投獄される時代であった。その頃はポルトガルの隣国スペインにはフランコ将軍が率いる保守的な軍事独裁政権があり、ポルトガルもその影響下にあり、ファッシスト党の独裁政権が秘密警察を使って植民地の民族主義運動を弾圧していた。
ネトーは一旦釈放されたが、1955年から2年間再び投獄された。民族主義運動に参加したというのが、投獄の理由であった。この間にアンゴラでは独立の気運が高まり、1956年7月、アンゴラ北部人民同盟UPNAが創設され、バゴンゴ族、ゾンボ族を結集し、昔のコンゴ王国を復活させようと画策した。
同年12月、レオポルドビルでアンゴラ解放人民運動MPLAが結成された。ネトーは1957年6月に釈放されると、これに参加し、以後有力なメンバーをして運動を支えた。彼は1959年にルアンダに戻って医院を開業したが、1960年に再び投獄されてリスボンに移送された。
1961年2月4日、ルアンダでMPLAの指導により、武装蜂起があり、ポルトガル軍の要塞と監獄を襲撃して政治犯を解放した。同年3月15日には、北部でアンゴラ人民同盟UPAが白人を襲い、267人を殺害し、72人を行方不明にさせた。指導者はバコンゴ族出身のホールデン・ロベルトであった。ポルトガルは本国から軍隊を出動させて暴動鎮圧を名目にアフリカ人2万人を殺害した。このとき、60万人が難民となって国外へ逃亡し、ロベルトも亡命した。
1961年以降、UPNA,ゾンボ同盟、アンゴラ民主党などもUPAと合流し、ロベルトをリーダーとしてアンゴラ民族解放戦線FNLAを結成し、キンシャサで亡命アンゴラ革命政府GRAEを樹立した。同年12月、ネトーは脱獄してレオポルドビルに亡命し、同じく亡命して来たMPLAの同志らと合流する。
1963年、アフリカ統一機構OAUは亡命アンゴラ革命政府GRAEを承認。米国のCIAはアンゴラ内の米系会社の権益確保のためにGRAEとひそかに連絡をとり、資金・武器援助を開始した。
GRAEに参加しなかったMPLAは弱体化してレオプルドビルから追放されてしまう。
同じ頃、アンゴラ南部ではオビンブンド族をバックにアンゴラ全面独立民族同盟UNITAが結成され、ジョナス・サビンビがリーダーに選ばれた。サビンビはルアンダの大学からリスボンの大学に進んで医学部を卒業。更にソルボンヌ大学で政治学を学んだ、スマートなビジネスマンタイプで、アメリカ人には好かれる型の活動家であった。彼はアメリカと南アフリカの両方から支援を受けるとともにポルトガル政府とも密かに連絡をとり、独立して首班となった暁にはポルトガル系企業の権益を守ると約束した。
1964年1月、MPLAはブラザビルで幹部会議を開き、アンゴラ国内全域で武力闘争に入ることを決めた。そしてカビンダ、モシコ両州で活動を開始した。
一方、FNLAはリーダーのロベルトがザイールに留まって遠隔操作による指揮をとり、北部に活動を展開し、米国、ポルトガル、ザイールの支援を受けた。また、サビンビのUNITAは南アフリカの白人政権の支援を受けて南部を拠点として活動し、3者3つ巴の闘争が始まった。
アフリカ統一機構OAUと、既に独立を達成したアフリカ諸国の大統領たちはロベルトとサビンビが独立を口にしながら、ひそかにポルトガル、米国、南アなどと手を握って支援を受けているのに気付き、GRAEの承認を取り消し、MPLAのネトーをアンゴラの正式の代表と認め、支援するようになる。真の独立は、「多国籍企業と手を切り、新殖民主義の芽生えを防止することにある」と彼らは信じ、そのために戦っているネトーらの行動を理解したからである。ソ連、東欧諸国、キューバなどの社会主義国もネトーを支援し、MPLAは次第に勢力を得て行くようになる。
4.アンゴラ人民共和国の成立
ポルトガル本国ではアフリカ植民地で長年ポルトガル軍人として民族主義者と戦ってきた人たちが結束して国軍改革派を作り、泥沼のような戦争を終わらせ、民族自立の方針に従って植民地の独立を許すように政府に働きかけるようになった。そして1974年、クーデターが起こってファッシスト政権が倒れ、アフリカにあるポルトガル植民地の独立を承認する新政府が誕生した。
1975年1月3日、ネトー、サビンビ、ロベルトの3首領が会談して停戦を協議し、同年1月17日、アルベールにおける会談でこの3者はポルトガル政府代表と会い、植民地廃止を決定した。ついで3者はルアンダ市内に入って新政府樹立の準備に移る。ところが、大勢の軍隊を率いてルアンダ入りしていたFNLAはUNITAと組んで停戦協定を破り、MPLAの党員を逮捕し、政府機関を占拠しようとした。これを阻むPKLA側と交戦状態に入った。しかし、FNLA軍は市街戦で敗退し、市街に出てから逮捕していたMPLA党員を処刑してから、北部に撤退した。また、UNITAも退去に際してMPLA支持者を殺戮しながら南部に向かった。ここにルアンダはMPLAの支配下に入った。
1975年3月、FNLA軍はザイール軍とともに北部アンゴラに侵入して南下しはじめた。同年8月、UNITA軍も南ア軍と共同作戦をしながら北上、11月11日を期して南北からルアンダを挟み撃ちにして攻略しようとした。目標はFNLA/UNITA連立政府の樹立である。
11月5日、UNITA・南ア軍は北上してルアンダ南方250キロのケーベ川に達したが、橋を爆破されたために前進出来ず、大迂回をせざるを得なくなり、11日ルアンダ到着が望み薄となる。
一方、FNLA・ザイール軍は大挙して南進し、ルアンダ北方18キロのベンゴ川北岸に殺到してルアンダ市内を指呼のうちに望める地点に終結した。ここでも橋が爆破されたので、修復に取りかかり、修繕完了と同時に合同軍はルアンダに飛びかかる作戦を立てた。そのため、首都蹂躪は時間の問題とされた。
ルアンダに残留して成り行きいかんと観察していたポルトガル軍司令官はネトーのところへやって来て、「これでお前の生命もMPLAの政権も風前の灯火となった。ルアンダ陥落は避けられない運命だから一刻も早く降伏しろ」と勧告した。
11月9日、キューバ救援隊の第1陣82名がルアンダ空港に到着した。彼らが直ちにベンゴ川畔のMPLA陣地に入ったことは言うまでもない。
11月10日、橋の修繕を待ちきれなくなったFNLA・ザイール軍は渡河作戦に出た。黒山になって岸辺に雲集した彼らに向かって思いがけなくもロケット弾が撃ち込まれた。それは前日着いたキューバ兵が陣地にソ連が供与したロケット連続発射装置カチューシャが置いてあるのを発見して、「こんなに強力な武器があるのに、何故使わないのか?」と訊いた。するとMPLA軍の指揮官が、「使える者がいない」と答えたという、いわく付きの兵器であった。キューバ兵は小躍りして喜び、川畔の高台に引っ張り出して使ったのである。
ロケット弾が炸裂して轟音が響き渡ると同時に数十人の兵隊が木っ端微塵になり、装甲車が空中高く舞い上がった。それを見たFNLA・ザイール軍はびっくり仰天!「敵は原爆を撃ち込んだ」と泣き叫び、我先に逃げ出した。そのために全軍が混乱に陥り、北方目指して敗走して行った。
キューバ兵は続々と到着して敵軍を追撃したので、ザイール軍は国境を越えて自国に逃げ入り、FNLAは北部農村地帯でゲリラ活動に専念することになった。
11月15日、MPLAは独立を宣言して、ルアンダを首都とするアンゴラ人民共和国を名乗り、ネトーが初代大統領に就任した。それから、UNITA・南ア連合軍に攻勢を強めて1976年にはUNITAの本拠地であるウワンボを陥れ、南ア軍を国境近くまで敗退させ、サビンビをして、「これからゲリラ戦に移る」と言わせるまでになった。
キューバ軍の介入はソ連からの依頼もあったが、キューバ人の祖先が奴隷としてアフリカから連れて来られた黒人であることが関係していると言われる。つまり、キューバでは奴隷たちの武装蜂起や脱走が頻発した歴史があり、奴隷解放後もスペインの殖民政策により苦労を重ね、やっとカストロ革命により収奪から逃れることが出来たので、同じような苦しみのなかで苦労している先祖の土地の人たちを助けようと救援に駆け付けたのだとされる。
実際はキューバに対するソ連の軍事援助に見返りがないので、ソ連が義勇軍の派遣を要請したと言われる。また、アンゴラに派遣された兵士たちは或る日突然、行き先も知らされずに飛行機に乗せられて来たと云った。それで家族は、何処へ送られたのかと不安な思いで暮らさねばならなかったともいう。(当時キューバに駐在していた日本人の証言)義勇軍の数は多いときで5万人であった。
1976年1月、米国のキッシンジャー国務長官は米上院アフリカ問題小委員会で証言して、「ソ連はMPLAを援助して共産党政権をアンゴラに樹立しようとしているので、米国はFNLAとUNITAを支援した」とそれまでのアンゴラ介入を正当化し、その後の支援を続行したい意思を明らかにした。しかし、これに続いて証言したアフリカ問題研究の専門家や、長年アンゴラに滞在したカトリック聖職者らは、「キッシンジャーは間違っている」と反論した。
1985年7月11日、米下院はアンゴラ反政府ゲリラへの援助を禁止する決議を採択したが、翌1986年1月30日、レーガン大統領はワシントンでUNITAのサビンビと会談して、1500万ドルの軍事援助を与えることを約束した。これは議会の反対が予測されたので、CIAの資金から支出された。
1989年1月、ブッシュ大統領はサビンビに手紙を送って援助を約束し、同年10月のワシントンで会談を行った。結局、米国は1992年までにUNITAに対し4億五千万ドルの援助を行った。
MPLAはマルクス・レーニン主義政党となり、新政権は一党独裁、社会主義、統制経済を掲げ、ソ連の顧問や、キューバの義勇兵、東欧諸国の技術者の援助を受けて国造りを始めた。鉱工業や農場などを国営とし、労働者に委員会を組織させて経営に当たらせようとした。
しかし、国家の運営はうまく行かなかった。独立宣言とともにポルトガル人の90%、約30万人が退去し、管理者・技術者が無に等しくなった。後に残った医師は全国で68名。以前は3万台あった自動車が5千台、バスは313台という状況であった。その上、契約労働で奴隷のように束縛されて悲惨な状態に置かれていた労働者を解放し、移動の自由を宣言したばかりに、彼らは大挙して帰郷してしまったので、工場でも農場でも働く人がいなくなり、生産が激減した。
MPLAはソ連からの28億ルーブル始め、社会主義国の援助と石油の税収で政権を維持しつつUNITA=FNLAとの対ゲリラ戦に対処した。UNITA側も米国、ザイール、南ア、中国の支援とダイヤモンド鉱山の利益で農村部の解放区を統治し、かつ戦争を持続させた。それは大国の代理戦争の様相を呈していた。
1989年UNITAは和平交渉に応ずる姿勢を見せた。また、1990年ソ連が崩壊して援助が途絶えたとともに、アンゴラ人民共和国の社会主義経済が行き詰まったので、MPLAは自由市場経済に移行して国営企業の民営化を図ると発表、国名をアンゴラ共和国と改めることにした。
1991年5月31日、ポルトガルの仲介により、UNITA側とルサカ協定が調印されて休戦が成立して総選挙を実施することになった。UNITAはこの時点でゲリラ軍でなくなり、1政党となった。この間の内戦で受けた損失は200億ドル、死者8万人、孤児の発生5万人、離郷者76万人、国外難民40万人とされる。死者のなかには1990年5月ベンガラ州ガンタ市で2500人が餓死した数も加えてある。
1979年、ネトーはガンのためモスクワの病院で死去。代わってジョセ・エドアルド・ドス・サントスが大統領を引き継ぎ、現在に至っている。彼は1942年生まれ、1961年MPLAに参加、1963年〜69年ソ連に留学して石油技師の学校を卒業している。1974年、MPLA中央委員、1975年、議長兼外務大臣を経験している。
5.選挙と内戦の再発
1992年2月〜3月、MPLAとUNITAとの協議の末、選挙法、政治組織法、メディア法などが合意され、多数政党による選挙が予定されて、そのために政党代表からなる国家選挙委員会が設けられた。国連安保理事会はそのために1880万ドルの援助と、文民400名の派遣を決め、国連代表として英国人マーガレット・アンステー夫人を指名した。
1992年9月29日〜30日、国連監視のもとに総選挙が行われ、日本からも3人のPK要員が派遣されて公正選挙の監視を行った。そのなかの1人、外務省の関川勇三は、「投票はどこでも整然として行われた」と報告している。しかし、選挙の結果が出るまで2ケ月もかかり、その最終結果が出る前からUNITAは、「不正があった」と非難して戦闘を再開することになった。
1.大統領選挙の結果はMPLAのドス・サントスが49.57%、UNITAのサビンビは40.07%、FNLAのロベルトは2.11%、残りは他の8人の候補が票を分け合った。
2.国会議員選挙は223議席中MPLAは129、UNITAは75、FNLAが5、その他の政党16となった。
1992年11月2日、ルアンダ市では国連監視団が引き揚げ、キューバ義勇軍も帰国した後、突如としてUNITAの兵士が攻撃を仕掛けて政府の主な建物や放送局を占拠しようとして、これを阻止する政府軍と市街戦を展開した。政府側は一般市民にも武器を渡し、臨時警官として応戦させた。「UNITAは殺人者」との宣伝が効いていたので、市民は喜んで政府側に立って戦い、3日間の交戦の末、UNITAをルアンダ郊外に追放した。その後戦争は地方に拡大した。州都や大きい都市は政府軍の手に帰し、農村部はUNITAの占拠するところとなった。
政府側はブラジルからミサイル、大砲、インドから航空機、イタリアからエレクトロニクス設備、スペインから治安確保用設備と弾薬などの支援を受けて戦争を継続した。一方、UNITAは米国から供与された地対空ミサイルのホークとスティンガーを使用し、国際連合の食糧援助物資輸送飛行機を撃墜するなどにも悪用した。
1992年〜93年にはこれまでにない激しい戦闘が繰り広げられて1日に1000人を越す死者が出ており、道路、橋梁、発電所、給水設備、公共建物、工場などが破壊された。死者の合計2万人、人口1千万人のうち300万人が直接の被害を受けた。難民となったもの200万人、全国に埋設された地雷は200万個と言われ、手足を失った障害者は7万人に達した。アンゴラ国民が受けた物心両面の傷は回復に10年単位の、かなりの長期を要するとみられる。
1993年3月6日、UNITAはその根拠地であるウアンボを政府軍から奪回した。人口20万人、アンゴラ第2の都市だったウアンボは廃墟と化してアフリカのベイルートと称された、同年4月、米国の仲介で和平会談が何回か行われ、同年5月には米国がMPLAのアンゴラ政府を承認し、それと同じにUNITAへの援助を打ち切ると発表した。
6.和平への道
1993年11月20日、再び平和協定が調印され、94年4月には内閣と国会編成の合意がなされ、7月には南アのマンデラ大統領の仲介により、ザイール、モザンビークも参加して、アンゴラ和平打開策が協議された。
また、国連は平和維持軍を送って停戦を守らせるとともに国際諸機関の協力を得て地域を割り当て、それぞれの地域で諸機関がUNITA兵の武装解除、除隊、職業訓練、定住、社会復帰等のプログラムを実施させている。
小競り合いが散発しているが、政府側とUNITA側ではすみわけが行われており、UNITAの解放地区では地方自治体同様の組織が作られて、行政サービスを行っている。そういう地区では今後もUNITAが推薦する町村長が任命されるようにとUNITA側は要求している。
武装解除は進んでいるが、これまで提出された武器は旧式のもので、最新の兵器はUNITA側に温存されているというのが一般の見方だ。これが1つの不安要因になっている(1996年2月現在)。
これからの予定では1996年3月1日、ガボンのリバースビルでMPLAとUNITAとの間で首脳会談が行われることになっている。その際に連立内閣の構成が再確認されるという。その後は6月にルアンダで行い、副大統領と4人の閣僚、その他の高官がUNITA側から出されることになる。地方の町村長の候補者名簿もUNITA側から出される見通しとなった。
この動きをルアンダ市民は希望と不安の眼差しで見詰めている。希望とは連立内閣がうまく機能して恒久平和がもたされるとの観測であり、不安とは1992年の悪夢が再現する恐怖である。UNITAが弱体化したと言えども、人口200万人のオビンブンド族をバックにした勢力を温存しているし、殺人集団との宣伝が行き届いている。彼らは何を企んでいるか分からない。
私たちが今回ルアンダで雇った運転手のマテウスは首をすくめて答えた。「サビンビをどう思うかって?彼は殺人鬼でさあ。自分の奥さんと義母を殺した恐ろしいヤツだ!」
これまでUNITAが姿を現さないのも不安材料である。彼らが現れるとき、どんな格好でやって来るのであろうか?軍服を着て装甲車を連らねて来るか、それとも平服で、ごく僅かのガードマンだけ連れて来るのか?閣僚に就任するとすれば勿論ルアンダ市内に居住する。これまでは田舎深くに隠れ住んでいた連中が市内に住むとすれば、これは爆弾をもち込むのと同じである。一触即発の危険をはらむことになる。
このような不安が市民を覆っている。恒久平和のためにはUNITAと共存せねばならないが、それは脆くも崩れ去る可能性がある。薄氷を踏む思いが続くであろう。
そうでなくても市民生活は苦しい。1992年の年間インフレ率は1,840%に達し、1993年2月5日現在のクワンザ通貨の交換レートは公定で1ドル=575クワンザ、貿易用1ドル=3,800クワンザ、観光客用=5,000、闇で9,700という。従って現金は役にたたない。
公務員給与が月数ドルにしかならないのでは絶対に生き延びられないから、賄賂や闇商売に精を出さざるを得ない。その上、毎日数時間の停電、隔日の断水、伝染病の蔓延、武装盗賊団の横行がある。教員ストが2ケ月も続いたと思ったら、今度は病院、保健所のゼネストが始まろうとしている。「弱者は死ね!」ということだ。実際、乳児死亡と産婦死亡は世界一である。
1995年9月、ブラッセルで開催された国連主催のアンゴラ救援機関円卓会議の報告書表紙には、「アンゴラの危機」と題されてあったが、まさしくアンゴラは危機的な様相を深めつつある。
なぎさちゃん、これがアンゴラ共和国の紹介だよ。おじいちゃんはつい力んで長々と書いてしまったけれど、本当に気の毒なのだ。おじいちゃんは1933年生まれなので、アンゴラ民族運動と同時代に生きてきたから、余計同情しちゃうよ。
平和な日本と比べると、何とまあ、可哀相な国の人々と思う。日本の子供たちはうんと幸せなのだ。
なぎさちゃん、地球上には不幸な人々が沢山いることを忘れてはいけない。そのような人々のために祈っておくれ。お前がいつか不幸な人々のために役立つ大人になることを祈っているよ。
第8章 ことの発端は
なぎさちゃん、元気かい?日本は寒いだろうね。アンゴラは南半球にあるので夏の盛りだよ。真夏の太陽がギラギラと輝いておじいちゃんの脳天を直撃する。北半球のアジアの島国の日本から南半球のアフリカ大陸のアンゴラ共和国へ、よくやって来たと思う。どういう訳でここへ来ることになったか、今日はそのことを書く。
1.アンゴラ政府の要請
ことの発端はアンゴラ共和国政府が正式な外交ルートを通じて日本政府に無償資金援助を求める要請書を送ってきたことにある。
何故アンゴラ政府が遠い国の日本に援助を申し込むことになったかを憶測すれば、誰かが、「そうしたら良いよ」と教えたからである。それがアンゴラ人か、日本人か、はたまた第3国人か、それは今の段階では分からない。日本とアンゴラの事情に詳しい人であるこは間違いない。
日本外務省には、2国間無償資金協力の申し込み用紙があって、これに必要事項がすべて書き込んであり、しかるべき政府高官の署名がある限り、それを受け取らざるを得ない。そして実地調査に移るか、保留として棚上げするか、検討せざるを得ない。
そういうときに日本の政治家が、「この件は宜しく」と言うと、外務省では前向きに検討することになる。ただし、政治家とは政府与党、つまり自民党の領袖と呼ばれる有力者に限るけどね。それで、おおよその経費が算定されて予算がつく可能性があるとなると、実地調査にゴーのサインが送られる。
1995年6月、日本政府はアンゴラに使節団を派遣して今後の両国の国際協力の「政策協議」を行わせた。そのとき、使節団はアンゴラ最大にして最高の国立総合病院であるジョシナ・マシェル病院を視察した。当時の病院の状況は余りにも悲惨で、医療機材が不足しており、アンゴラ側から機材の供与を口頭で要請された。使節団は強い印象を受けて、いずれは援助をしなければならないと思ったという。その後、相手政府側から正式な医療機材の援助要請書が提出されたので、日本外務省では慎重に検討した結果、同病院に医療機材を供与するための実地調査を行うことが承認された。
さて、日本外務省の国際協力を下請けする機構があって、特殊法人の国際協力事業団(JICA・ジャイカと読む)と呼ばれ、漫画雑誌にも載り、日本の若者の間に有名で、世界の有識者に知られていた。総裁始め役員が外務省高給官僚の天下り先になっているのでも有名である。
この案件はJICAに廻され、そこの業務部が更に民間コンサルタント会社に下請けを出すべく、会社の選定に入ったのが1995年12月だった。JICA業務部に登録された会社の幾つかに競争入札に参加しないかと声がかかり、説明会が催された。
説明会ではJICAスタッフがアンゴラ共和国政府が出した「要請書」のコピーを配布して病院の概括と予定供与機材のリストが説明された。各会社は期日までに、調査のために必要な金額と、調査方針、調査内容、調査員名簿と履歴書を提出することになった。これが競争入札だが、入札についてのJICA側の資料は公開されないから、JICAがどういう根拠で会社を選定するかは分からない。
アンゴラについての資料はごく少なく、同国の保健医療関係の情報や、ジョシナ・マシェル病院についての知識はないに等しい。「要請書」だけが唯一の資料である。あとは、これまでアフリカの他の国に対して行った医療機材供与の資料や経験をもとにして提出書類を作るしかなかった。
いつも入札に成功している大手のコンサルタント社があり、JICA幹部が天下りしていると噂されていたが、どういう訳か今回は辞退して、名古屋に本店のあるビンコー社が落札した。大手の会社が辞退した訳は余りにも困難な事業であることが予想されたからであろう。どうしてビンコー社が選ばれたかはJICAの秘密事項なので窺い知ることは出来ない。
ビンコー社は時計のセイコー社に名前が似ているが、セイコー社と同じように時計などの精密機械のメーカーとして出発した。やがて精密機械の輸出を手がけ、それがいつの間にか医療機械の輸出となり、日本政府が後進国に供与する医療機材の手配を行うようになっていた。東京神田に支店があり、主としてJICAの下請けとして調査と機材の供給を行っている。
私がこの会社と関係を持つようになったのは、住友商事から紹介されたからである。住友商事と知り合いになったのは、JICA派遣でイエメン共和国首都サナアにいたとき、住友のサナア支店長と親交を持ったからであった。イエメンから帰国したとき、私はビンコー社の顧問となり、フィリピンのマニラ日本人会診療所勤務となってからからも連絡が保たれていた。その後、ビンコー社がJICAの仕事を取るたびに私の名前を調査員として出させてくれと依頼があり、1994年9月に診療所を辞めてからは、調査員として名前を出すことを承諾していた。
1996年1月、ビンコー社がアンゴラの調査活動を落札した際に私が調査員の1人として出張することに決まったのである。1月25日出発というので、私は1月21日に帰国したが、出発が延期されて2月12日になった。それまでに「要請書」に目を通す余裕があった。
要請書の冒頭には次のように記載されており、度肝を抜かれた。
「保健活動は不満足である。それには沢山の原因があって、改善することが出来ない。その1つに『戦争』がある。これは保健担当者に解決出来ない。その他、多くの都市では給排水の不備、衛生設備の欠乏、居住環境の悪化、ゴミ処理の困難がある」
そして付属している保健データには、1990年資料で、
「乳児死亡は1千の出生につき、364」という驚くべき数字があげられている。これはフィリピンで40。日本では5という数字である。
「平均寿命は45才」とあり、フィリピン65才。日本79才である。
ジョシナ・マシェル病院については、
「アンゴラにおける主要な、歴史的な病院で、1次、2次、3次医療を扱う。
従業員は2,002名、この内訳は医師109名、看護婦(男もいれて)188名、技師758名、事務員232名、警備員276名、労務者428名、運転手13名である。
予算は1993年1年間分が2,200万ドルでこのうち人件費560万ドル、物品費900万ドル、サービス費480万ドル、機材購入費230万ドル、その他40万ドルとなっている。人件費を2000名の従業員で単純に割ると1名1ケ月給料は140ドルになる。また、物品費のなかに含まれるメンテナンス費用は600万ドル、薬品費280万ドルである。メンテナンス費を何故物品費に入れたか不思議だが、恐らくメンテナンスに含まれる建材費やパーツ代金が高いのであろうと解釈した。
アンゴラ政府の要請書には出ていないが、ビンコー社の資料にはジョシナ・マシェル病院についての説明がある。
「1883年、ポルトガル政府により建設され、現在は2,000名の職員、1250ベッドを有するアンゴラ最大の国立総合病院である。患者が多いため床にマットを敷いて対応しており、これも含めると約2,000ベッドになる。この他にも約100名ほどが屋外にテントを張り宿泊している」この記事は前年6月に視察した日本政府の政策協議使節団の報告のようである。
2.事前準備
1月22日、私はビンコー社で、今回の調査団業務主任として出張する、一級建築士の五代儀和彦氏からブリーフィングを受け、彼が作成したインセプション・レポートなるものを受け取った。これは日本語とポルトガル語で書かれており、アンゴラ政府の当事者に渡して我々調査団の訪問目的を知らせるものである。これによると、
「今回のアンゴラ側の要請医療機材はエックス線テレビ診断装置など165品目、637点で時価およそ5億円である。供与方法は日本政府の無償資金協力スキームによるものである。そのためにアンゴラ・日本両国政府間の合意署名(E/N)により、当プロジェクトの目的、供与期限、実施条件、限度額を確認する。
コンサルタントと調達業者を日本国民に限定する。具体的には日本政府が払い込む日本円をアンゴラ政府がコンサルタントと調達業者に支払って機材を購入することになる」
供与する医療機材のリストはアンゴラ政府が提示しており、時価にして約5億円である。申請のあった機材が本当に必要なものかどうか?現地で使いこなせるものかどうか?などを調査するのが我々の訪問目的であった。
一番注意しなければならない点は、(1)リストに提示されている機材が病院内に既に有るかどうか?有っても1台では絶対的に不足だから、もう1台追加する必要があるかどうか?また現在有るものが修繕が効かないくらい壊れているかどうか?(2)メンテナンスが出来るかどうか?(3)供与された機材を使いこなす専門家がいるかどうか?などを調査する必要があった。
日程は2月12日に出国、パリに2泊してアンゴラ入国ビザを取得、2月15日から3月7日までアンゴラに滞在、その後、在ジンバブエ日本大使館(アンゴラには大使館がない)に出向いて報告、帰路はロンドン経由で3月12日帰国となっていた。その後は日本で資料を解析し、4月5日までに報告書を作成する。
それから、報告書によって決定した日本政府の意向を受けてプロジェクトの説明書(ドラフト)を持参してアンゴラ政府に説明し、了解を得る仕事がある。これが5月5日出発、同月19日帰国の予定である。
調査団は、団長が外務省の寺尾和彦外務事務官、技術参与が国立国際医療センター放射線科の椎名丈城医師、JICA代表としてロンドンJICA事務所の黒川清登副所長、在ジンバブエ日本大使館の小路康雄一等書記官の4名が官僚がわ。それに民間コンサルタント側の5名がつく。五代儀和彦、設備担当の岩崎賢二、積算担当のビンコー社員の猪狩喜平、ポルトガル語通訳として国際協力センター社員の渡辺宏昭、それに機材計画担当としての私が参加することになった。
このうち官僚側は2月23日にアンゴラを出発して黒川はロンドン、小路はジンバブエに、寺尾と椎名は東京に戻ることになっている。また猪狩は2月26日にアンゴラを出発して南アフリカ共和国での調査活動を行い、3月8日、ジンバブエで五代儀と私に合流することになる。岩崎は2月29日にアンゴラを出発して帰国する。
2月5日東京新宿のJICA本部で初顔合わせがあった。最年長は通訳の渡辺で64才、NHKで長くポルトガル語放送を担当した後、定年退職し、JICAの外郭団体である(株)国際協力センターに籍を置いて通訳・翻訳業をしている。1995年6月、外務省の政策協議使節団の通訳としてアンゴラに出張している。
年令の順から言えば次が岩崎で63才、東芝に長く勤務したあと定年退職してから自分の会社を設立し、レーザー利用の医療機械を製造販売したいる。ビンコー社の技術顧問もしているので、今回の参加になった。
その次が私で62才、医者を引退してマニラでボランティア生活を送っており、ビンコー社の仕事で国際協力を手伝うのは始めてである。
五代儀は42才、海外経験豊富で、ビンコー社に入社して10年、JICAの医療プロジェクトのコンサルタントとして出張する回数が多く、ベテランである。猪狩は商社のマレーシア駐在員としての経験を積んでおり、医療関係のコンサルタントとして出張した回数が多い。
団長の寺尾は40代、農水省から外務省に出向中で、1995年の政策協議使節団の1員としてアンゴラの経験があるようだが、それは言わない。大柄で西郷隆盛に似た風貌をしており、典型的な官僚タイプで、横柄な態度をとり続け、雑用はすべて民間の団員に押しつけた。
一番被害を受けたのは猪狩で、「ボクは女中だ」とこぼしていたが、本当に女中のような使い方であった。「それ、机を拭け」とか、「椅子を持って来い」と命令されていた。
椎名も親しみの持てないタイプで、「医者同士は兄弟」という諺など知らないようであった。常に寺尾と行動を共にして彼のブレーンの役割を果たしていた。
会議の席上、渡辺が前回アンゴラに出張したときの経験談を披露した。「ひどい下痢に罹り、地元の病院へ連れて行かれて治療を受けた。そのときは死ぬかと思うほど苦しい思いをした。現地では薬は入手し難いので持参した方が良い。ついてはJICAの診療所で同じような薬を貰えないか?」と、アンゴラで貰った下痢止めと抗生物質の残りを見せたが、JICAのスタッフは、「自分で調達してくれ」との冷たい返答であった。
それで私が手配することになった。マラリアも蔓延しているとのことなので予防薬を持参することにした。幸い、五代儀が、「薬代はビンコ−社で払う。しかし、官僚側にはやることはない」と言うので、民間の団員にだけ配った。
また、渡辺の経験談で、「警官は月給5ドルぐらいなので、何でも言い掛かりをつけて外国人から金を巻き上げようとする。あるときは車に乗っているもの全員から5ドルづつ、また、あるときは50ドルづつ取った。金を出さないと何時までも運転手の免許証を取り上げて返さない。また、カメラを開けてフィルムを取り出せなどと無理難題を吹っかける」と言う。
五代儀によれば、「JICAが指定した旅行会社に航空券、パリのホテル、アンゴラのホテルなどの予約を依頼した。この旅行会社にはJICA幹部が天下りしており、高姿勢で、値段は高いし、未だにホテル名などの連絡もない」と悲観的な報告であった。
2月7日には外務省で会議があり、議事録作成について打ち合わせがあった。これは調査団とアンゴラ政府関係者との重要会議の議事録で、これを作って持ち帰るのが今回の主目的らしかった。少なくとも寺尾団長の使命はこれを得ることだった。
内容は、「日本調査団は日本側の条件を提示し、アンゴラ政府側は条件を飲んだ」というものである。これが今後の機材供与の方向を決定するものである。日本側の条件とは既に印刷されてテキストになっており、更にご丁寧にもスライド映写で説明されるもので、会議当日はテキストを出席者に配布し、スライドを見せることになっている。その条件とは、(1)日本のコンサルタントを雇え、(2)日本の業者から機材を買え、(3)金は日本円でアンゴラ政府に渡すから、それをコンサルタントと業者に支払え、(4)機材は既にあるものはダブルから供与しない。などというものである。
議事録は最初から日本で書いて行き、会議の席上で多少の手直しがあれば直して、関係者のサインを貰うものである。寺尾は、「英文だけ用意すれば良い」と言ったが、渡辺は、「前回も英語とポルトガル語を用意させられた。ポルトガル語でも作成して行くべきだ」と主張した。しかし、寺尾は人の言うことを聞く男ではない。「英語だけ」と言い切って渡辺の意見を無視した。どうせ寺尾が書くのではなくて、渡辺に書かせるのだから、寺尾にとってはどっちでも良いことだが、彼の強情が渡辺を苦しめることになった。渡辺は現地に行って無理をすることになり、またもや病気になってしまった。
3.ルアンダ入り
2月12日、日本航空でパリに入り、(株)地産に関係するブライトン・ホテルに投宿。翌13日午前、在パリ・アンゴラ大使館へビザの申請に行く。これはJICAパリ事務所員の案内で団員全員が出向いたが、その必要はなく、代理人で充分だった。14日、フランス航空で出発。
15日午前7時、ルアンダ上空で日の出を見た。地平線と雲に挟まれた細長い空間に大輪の真っ赤な太陽が顔を出した。水蒸気が多いせいか、眩しくない。日が昇るにつれてアフリカ西岸が黄色く光って見えてきた。やがて赤土の大地が眼下に見え、枯れ草がベージュ色になって地上を覆う場所があるかと思うと、水流の周囲の緑地帯もあり、オモチャのような立ち木や、白いトタン屋根に赤いレンガ建ての家屋が現れたと思う間もなく、飛行機はルアンダ空港に降り立った。
入国審査は時間が掛かった。審査官はパスポートとコンピューターを見比べながら何時までも考え込んでいる。ようやく飽きたと思うころスタンプを取り上げパスポートにポンと押す。1人に5分はかかる。ブースの前には長い列が出来て、なかなか進まない。1時間も待たされた。アンゴラ人用ブース2つ、外国人用ブース2つあり、アンゴラ人用は直ぐ終わってしまい、審査官は手持ち無沙汰で大あくびをしているのに、外国人は長蛇の列である。
「アンゴラ人用のブースを外国人用に使え」と何人もの男たちが抗議に行ったが駄目。アンゴラ人用にはコンピューターがないからである。こんなに時間がかかるのならコンピューターなんか使わなければ良いと思った。
とうとう猪狩の番が来た。私の前である。何やら尋ねられているが、言葉が通じない。渡辺が出て行って通訳した。「何処に泊まるかとか、何時までいるのかとか、外貨を幾ら持っているかなどと訊いている」と渡辺が列に戻って言った。猪狩はブースを出たところで、また別な係官につかまって何やら訊かれていた。この係りは英語がしゃべれる。入国する外国人がどんなヤツか調べる諜報部員らしい。停戦協定がなったとは言え、地方ではまだ政府軍と反政府軍が小競り合いをしている血生臭い国なので、不穏分子の入国を警戒しているのであろう。
私の番が来た。審査官は童顔の青年で、私の顔とパスポートとコンピューターを等分に眺め、考え込んでいるようであったが、やがてスタンプを押してパスポートを返してくれた。
「これはコンピューターの性能が悪いせいだな」と私は思った。買ったときから悪いのか、使い方が悪いのか分からないが、私の名前を入力してから返事が戻ってくるまで、かなりの時間がかかるようであった。その間を根気良く待っているのであった。
「もしもし、パスポートを見せてください」ブースを出たところで中年の口ひげを生やした男が英語で呼びとめた。諜報部員と思った。彼はパスポートを見て直ぐ返却してくれた。
荷物はすでに出ていた。一番後に寺尾団長が出て来て、渡辺と一緒に税関職員のところへ行き、「我々は外交官のグル−プだ。荷物は調べないで欲しい」と申し出た。前回もそうしたのであろう。荷物がフリーパスになった。建物の出口で空港警備の係が私のカートを押し留めて「段ボールの箱はなにか?」と訊いた。渡辺が、「我々は外交官だ」と言ったら、「ああ、そうか。それなら宜しい」と手を離してくれた。
この段ボールの箱には日本の企業の新製品が入っていた。水に少量の食塩を混ぜてこの機械にかけると、15分ぐらいで強酸性水が出来る。消毒に良いし、熱帯潰瘍の治療に良い。「これを活用して貰ってくれ」とフィリピンで領事をしていた人から頼まれた。大きい荷物だし、誰にやったら良いか分からないので、私は迷惑に思ったが、断ることも出来ず、アフリカくんだりまで持参していた。
出迎えの車はいなかった。エービス・レンタカーを予約してあったはずと言うが、それらしい影はなかった。前回の使節団は現地駐在の日本商社マンに準備を頼んでおいたので、スムーズに行ったが、今回は団員のなかに民間人が参加しているので、外務省の人間が商社に依存しているところを見られると都合が悪いと、頼まなかったらしい。
空港建物玄関前の道路を隔てた向こう側にタクシーが3台待っていた。そのまま道路を横切ってタクシーに乗ってしまえば問題はなかったが、そうはしなかった。寺尾の命を受けて渡辺が空港建物内に取って返し、エービス・レンタカーのカウンターまで行き、車の予約がなかったか、確認に行ったからである。しかし、予約はなかった。
いつの間にか我々は薄気味悪い連中に十重二十重に取り囲まれていた。白タクの客引きで、口々に、「タクシー」と喚きたて、我々の背を押したり、手を引いたり、荷物に手を掛けようとする。道路の向こう側の公認タクシーはいなくなっていた。
なかにはチンピラ・ヤクザみたいな男がいて、白地にネズミ色の水玉模様がついた派手な背広に白い長ズボン、黒いエナメル靴を履き、手にこれ見よがしに金鎖のネックレスをぶらさげて、「オレを雇わなかったら、ひどい目に合わせるぞ」といった調子でねじ込んで来た。
団長はただ右往左往するだけで役立たずなので、五代儀が気を利かせ、渡辺の通訳でチンピラ・ヤクザと交渉したあげく、白タクを3台50ドルで雇うことにした。するとチンピラは手にしていた金鎖を首にかけて一番大きい五代儀のトランクを運んで駐車場に置いてあった茶色い大型車のトランク・ルームに積み込んだ。彼も白タクの運転手であった。それにしても古いオンボロ車でペンキは剥げ、車体のあっちこっちが凹み、バンバーが落ちそうにぶら下がっている代物である。
荷物が多かったので3台の白タクでは乗りきれないと分かった。そこへ公認タクシーが1台戻って来たので呼んだら、チンピラが怒って大声でタクシーの運転手を怒鳴りつけて追いやった。それでもう1台の白タクを頼むことにせざるを得なかった。それから五代儀と渡辺が長時間ねばって交渉し、白タク4台でホテルまで50ドルに負けさせることにした。
空港からメリジャン・ホテルまで20分であった。ホテルの予約も取れていなかった。幸い部屋が空いていて、各人個室がとれたが、手続きには飽きるほどの時間がかかった。
エービスと言い、メリジャンといい、国際的な会社だから日本から十分に連絡が取れる。電話は不便でも、FAXは使えるし、宅急便のDHLも利用できる。それなのにJICAの天下り先の旅行社は何もしてなかった。値段は人並み以上に取るくせに。
予約は役所もとれていなかった。当日午後、一同がん首を揃えて協力省のアジア・オセアニア局長を訪問したが、会えなかった。この人が今回の医療機材供与受け入れの責任者であった。一番重要な人との面会のアポイントを何故とっていなかったのか、理解に苦しむ。アンゴラには日本の大使館も領事館もなく、在ジンバブエ大使館が担当することになっているので、ジンバブエからアポイントをとってくれれば良いのに、それはしてなかった。前回の使節団はアンゴラ駐在の日本商社員にアポイントを取って貰ったというが、今回もそうすれば良かったのに、それもしなかった。
ジョシナ・マシェル病院を訪問したが、ここも駄目。責任者は誰もいないとのことであた。五代儀の話では、「モザンビークの病院を訪問したときは、病院スタッフが玄関前に整列して調査団一行を歓迎してくれた」とのことだったが、ここは空振り、先が思いやられた。
保健省へ行ったら、女子職員に怒鳴りつけられた。予約もなしに訪問したからである。副大臣が、「団長と通訳とだけ会う」と言ってくれ、団長が頼み込んで翌日の会談のアポイントをとった。
外務省へも行った。ここでも誰とも会えず、女子職員に頼んで担当スタッフに会えるよう予約を依頼して引き下がった。
この日はパリからの夜間飛行で疲れたからだに鞭打って7名の調査団員が3台のベンツ・タクシーに分乗して役所回りをしたのに、誰とも会えなかった。何故ジンバブエ大使館が面会予約の連絡を入れてくれなかったのか?何故駐在商社員に頼んでアポイントを取って貰わなかったのか?理解に苦しむ。また、空振りが予想出来たら、前回訪問していた寺尾団長と通訳だけが役所回りをすれば良かったのに、何故7人を連れ回したのか?これも理解出来ない。
4.ホテルの様子
ルアンダ・メリジャン・ホテルは26階建て。私の部屋は15階の北向きにある。
窓からの景色:眼下に税関前広場があり、広場の先は時計がついた高い塔のある大きい税関建物。更にその先は長い船着場になっていて、海につながる。右手の広い平野はコンテナー置き場である。そのなかに鉄道線路が見える。これは奥地へ行く鉄道だったが、内戦で破壊されて不通になっている。沖には荷揚げ待ちの外国航路の貨物船が10艘ぐらい停泊している。右手に海に伸びた岬が見え、水平線近くに蜃気楼ではないかと思われる島影も望むことが出来る。
階段踊り場からの景色:西方はルアンダ湾となっている。幅6キロほどの細長い湾に見えるが、実際はルアンダ島との間の狭い海峡である。この島は長さ10キロ、幅数百メートルの細長い低い島でルアンダ市のある海岸と平行して横たわり、南部の一番海岸と近付いて300メートルぐらいになった地点に橋がかけられている。島にはリゾート・ホテル、レストラン、病院、保健所、学校、警察、住宅街などが出来ている。海峡は浅いので大きい船が入れない。魚と鳥の天国である。見ているとひっきりなしに大きい魚が空中に飛び上がっている。空中に銀色のウロコを輝かせてはドボンと海面に落ち、波紋を作っている。フラミンゴと思われる水鳥が群れ飛ぶのも見える。島の先は波静かな紺碧の大西洋である。
ルアンダ島は外洋から見ると砂州である。船は着けないが、北に回り込んだところが河口のような海峡となり、昔の小さな船にとっては天然の良港である。リスボンに似ているとkろからポルトガル人が気に入って植民地とした場所である。
一般にアフリカ西岸はこのような砂州があるか、絶壁の海岸なのでヨーロッパの船が停泊出来るところは少なかったようだ。それで長く暗黒大陸と称される時代があった。現代は飛行機があるので人と貨物の往復は簡単になり、貿易、観光を通して全世界と結ばれるようになった。平和さえ続けばアンゴラは良くなるであろうと思われる。
ホテルにいる分にはパリにいるのも同然で、空調はあるし、浴槽に熱湯が出るし、冷蔵庫にはビールやジュース類が冷えている。6階のレストランは朝食がタダ!昼食はバイキングでフランス料理の日にはワインつきで40ドル、ブラジル料理が出る日は蒸留酒のカクテルがついて38ドルである。アラカルトでは白身の魚と車えびのチリソースあえが27ドル、ポルトガル風ヒレ牛肉ステーキ30ドルである。このレストランは日本人には不評で、味が合わないし、従業員が中年のデブばかりで、しかも気が利かない。それで外の食堂へ行くことが多かった。
コンティネンタル・ホテルへは良く行った。2階のレストランは冷房が利いており、ウエートレスは肌は黒いが、若くてスリムで気が利いていた。昼のバイキングはスモ−クサーモン、野菜サラダ、イセエビ、牛肉ステーキ、野菜煮込み、デザートにポルトガル風ケーキにパパイヤ、それにコーヒーがつき、おまけにワインが1人に1本づつ付く豪華版で36ドルであった。
なぎさちゃん
こうしてアンゴラ共和国の首都ルアンダ市にやって来たんだよ。ここの人たちは色が黒くて髪の毛が縮れて頭の皮膚にぴったりと付いていて、男女の見分けがつかないから、男はみな髭を生やしているんだ。おじいちゃんの白い口髭も伸びてきて、ようやくサマになった。帰ったら、なつきちゃんはびっくりして泣き出すんじゃないかな。コンティネンタル・ホテルのレストランにいる若いウエートレスはおじいちゃんが行くと珍しがり、大勢寄って来て一列横隊になって見るんだよ。おじいちゃんの髭が珍しいのだろう。それともハンサムなので寄ってくるのかとうぬぼれている。
第9章 ニロ医局長
なぎさちゃん、
今日は病院の医局長ニロ・バス・デ・ボルジャ先生のことを書くよ。アンゴラ人には珍しくヒゲがなくて童顔で、小柄で、外見は可愛らしい人なんだけど、何となくムシが好かない。黒人でもムシの好く人がいるよ。会ったときの印象が良くて、話してみると気が合って好きになる人がいる。耳鼻科のマトウバ先生や大学病院のジョゼ先生などは好きだ。しかし、どうもニロ先生はムシが好かず、付合いきれないと感じた。理由はこれから段々と書いて行く。
1.初対面
2月16日(金)午前9時、ニロ医局長と会うために我々日本調査団一行はジョシナ・マシェル病院の中央廊下をぐんぐんと進む。南北に走る廊下は幅約4メートル、長さ200メートル、屋根だけある吹きさらしの開廊である。途中、足場を組んで天井や壁のペンキ塗りをしていたり、大きな角形の消毒機や手術室用の無影灯の故障したものがゴロンと遠慮なく転がっていたり、また、地雷で片足を失った男が車椅子に乗り、なくなった足の部分にキャンデーを載せて通行人に売っていたりするところをわき目もふらずにどんどん行く。すると1階だったはずの廊下がいつのまにか2階の渡り廊下になっていて、これまで廊下の左右に翼状についていた病棟も2階になっていた。その左手の2階の建物にニロ先生の部屋があった。
案内してくれたのは大柄で温和な看護局次長のマセード氏であった。昨日来たとき、院長室の隣にある看護局長の部屋で会い、「院長はいないか?」と訊くと、「いない。父親がなくなったので休暇をとっている、来週にならなければ出勤して来ない。医局長なら明日9時に会える」と答えた。
医局長室は狭かった。一行7人が入ると身動きがとれない。しかし、椅子は揃っていてみな着席することが出来た。右手奥の廊下側に面した壁にデスクが置かれ、その前の回転椅子に彼が座って丸椅子に座った我々に対した。左手奥は泌尿器科用の診察台が置かれ、ここは彼の診察室でもあった。
ニロ先生は40代、縮れた頭髪の半分は白くなっていた。目が大きくて整った顔立ちをしており、赤い縞の入った開襟シャツを着ていた。ポルトガルに留学して泌尿器科を勉強したと言い、英語が少し喋れた。私が、「外科医」と自己紹介すると、「コレーグ(同僚)」と言って手を差し伸ばした。
団長の寺尾が一同を代表して挨拶した。「アンゴラ政府から本院に医療機材を供与して欲しいとの要請があったので、実地調査に来ました。調査に協力してください」と言って、調査団員の顔写真つきの名簿、五代儀が作成したインセプション・レポート、質問表などを手渡した。
ニロ先生が答えて言った。「昨年、日本から使節団が来て病院を視察した。その後アンゴラ政府が日本政府に対して、当院に医療機材を供与してくれと要請したと聞いている。アンゴラには国立総合大学があり、当院は教育病院に指定されている。その意味でも高度の医療機材が必要だ」
寺尾が質問表を説明して、「来週、これの回答が欲しい」と言うと、彼は困惑したような表情で、「来週月曜日は病院のストライキがあって仕事がストップする。ボクは管理者としての責任があるので出勤するが、事務職員は出て来ない。回答は難しい」「では火曜日はどうか?」「その日はカーニバルで休日だ」
我々は運が悪かった。ストライキとカーニバルで貴重な2日間が潰れてしまう。その上ニロ先生の追加の言葉が我々を更に落胆させた。「ストは1日で終わらない。学校教師のストは2ケ月も続いたから、その分で行くと、皆さんの滞在中は病院ストがずっと続くと予想される」ストの予定やカーニバルは事前に分かったはずである。大使館員や商社員と連絡を取り合っていれば、予知することが出来たのに、それをしなかったのは日本外務省の落ち度であった。
2.小児外科について
翌日朝、再びニロ先生と会う。
「小児科について質問したい。こちらからの要請機材のリストには小児科病棟の機材がかなり入っているが、聞くところによると、これまであった小児科病棟450ベッドは独立して国立小児病院となり、本院には小児科がなくなったそうだ。何故小児科病棟用の機材を要請するのか?」ニロ先生がすかさず答えた。「小児外科を作る」「何ベッドか?」彼はしばらく考えたあげく「60ベッド」と答えた。
「小児外科の医師は何人か?」「1人」「場所はどこか?」「院内だ。現在改修工事中のところに作る」「いつ出来るか?」「5月の予定」「図面はあるか?」「ない。工事会社にあると思う。会社はコロド社だ」
「新生児用の機材も要請されているが、新生児は何のために入院させるのか?」「先天性奇形の治療のためだ」本当のことを言っているのか、口から出まかせを言っているのか分からない。小児外科を創設するのに、小児科病棟もなければ、小児科医もいない。それに小児外科60ベッドに専門医1人も解せない。また先天性奇形を治療するのに、産婦人科がない病院で新生児用ベッド50台や新生児用蘇生器6台の要請もおかしい。
小児外科の先生が図面を持って来てくれ、説明してくれるのなら我々も合点するのだが、ニロ先生ののらりくらりとした返答では信用出来ないと思った。
3.予算の使い方
「病院の予算について伺いたい。患者から診療料金を徴収するか?」「この病院はすべて無料だ」とニロ先生は胸を張って答えた。「将来も徴収する予定はないか?」「病院としては徴収して経営内容を改善したいが、保健省が許可しない。予算はすべて保健省から来る」
「予算は病院が自由に使えるのか?」「病院がプランを立てて保健省の許可を得て使う」「外国製品を購入する場合はどうするか?」「大蔵省から外貨を貰って購入する」「薬品は病院が購入するか?」「そうだ」「WHOやユニセフなどからの援助はないか?」「ない」「年度途中で予算がなくなったらどうするか?」「大蔵省に頼んで予算を追加してもらう」「人件費は少ないようだが、医師の給料はどのくらいか?」「ボクの月給は20ドル」それを聞いて一同声を上げた。月20ドルでどう暮らすのか?物価が安いわけではない。インフレで物価が上昇している。それなのに良く平気でいられると感心した。
ニロ先生は金鎖のブレスレットをしていた。景気は良さそうだ。副収入があるなと私は思った。
それにしても我々の昼食代は40ドルだからニロ先生の月給2ケ月分である。我々はよほど贅沢をしている。こちらの人たちは厳しい生活を強いられていると思った。
「巡回診療について質問したい。去年使節団が来たとき、本院が巡回診療をやりたいと希望していた」「そのような希望はない」「もし、巡回診療車を寄贈してもやらないのか?」「やらない。病院内の診療で手がいっぱいだ。それより救急車の寄贈を願いたい」「救急車は何台あるか?」「1台ある。これは緊急患者搬送用に使っている。もう1台供与して貰えれば病院管理者の交通に便だ」
ここでは電話をかけて救急車を呼ぶというシステムがない。保健省の玄関前に見られたように救急車は病院幹部の交通用である。
なぎさちゃん、どうもニロ先生が好かない。狡猾な人のように思える。しかし、人を色眼鏡で見てはいけないと自戒している。この先生が患者から金を取っているのを見たという団員がいた一方、患者に評判が良いという情報を得た人もいる。人を評価することは難しいものだ。
第10章 医局長のいじめ
なぎさちゃん、
ものごとは思うように行かない。そのお手本が今日話すニロ医局長のいじめなのだ。これは嫌がらせと言っていいか、邪魔だてと言っていいか、分からない。協力の反対だからね。我々は善意で足らない医療機械を寄付しようとはるばる日本からやって来ているのに、調査に協力しないなんて、いじめとしか思えない。いきさつは次の通りだ。
1.中央検査科
病院見学の山場は中央検査科であった。我々は、「どうしても中央検査科を見なければならない」と主張するのにニロ先生は、「駄目だ。スト中なので入れない」とつっぱねる。「見せなければ検査機材は供与出来ない」と言うと、「それじゃ、明日見せよう」ということになった。
2月23日午前9時、勇んでやって来ると、ニロ先生は自分の部屋にいた。「さあ、約束だから中央検査科を見せてください」と頼むと、「それじゃ、行こう」と立ち上がった。彼は外科医が手術のとき着るような白い後開きの裾長ガウンを着て、今日は診察か手術がありそうな格好をしていた。スト中でも仕事をしているようであった。
部屋を出てからどんどんスロープを降りて中庭に出て行くので我々も遅れじとついて行く。5階建て新館の東側広場に来た。ここは本来は2階だが広場が盛り上がっているので、広場から見れば1階になっていて2階の中央検査科に直接入れる玄関があった。両開きのガラス戸の外側に鉄格子がはまり、そこに銀色にひかる太い鉄鎖と大きい南京錠がかかっていて我々の侵入を拒んでいた。
「この通り、入れない」とニロ先生が両手を広げ、狡猾そうな笑いを浮かべて言う。「鍵を持ってきて開けてください」と五代儀が頼む。「鍵はない」とニロ、「誰が持っているのか?」と五代儀。「中央検査科の部長が持っている」「じゃ、部長を呼んでくれ」と岩崎が怒鳴る。「いくらストだって部長は来れるだろう。呼びに行けばいい」するとニロが皮肉そうな表情で訊いた。「ボクが呼びに行くのか?」「当たり前だ。昨日のうちに連絡しておけば良かったのに、しなかったからいけない」と岩崎が言うと、「ボクは部長の家をしらない」と来た。「自分で行かなくても、誰かを行かせればいい」と五代儀が諭すように言った。ニロは内部を見せたくない。何かあるなと私は思った。
そこへ野球帽を被った小柄な中年男が通りがかった。病院の職員らしい。ニロが呼ぶとそばにやって来て何やら話していたが、もと来た道を引返し行った。「あおの男は救急外来部の検査室に務める検査技師だ。いま部長の家へ鍵を借りに行った。ボクの部屋で待とう」とニロが説明した。
我々は心中憤懣やるかたなかった。錠がおりていて入れないと分かっていながら、ニロはどうして我々を案内したのだろう。我々が諦めて、「では明日また」なんて言うかと思ったのであろうか。これはきっと隠したものがあるなと思わざるを得なかった。
20分ぐらいして野球帽の男が戻って来て、「中央検査室を案内する」と言うので、ぞろぞろとついて行く。目出たく中央検査科の玄関の扉が開いた。直ぐ待合室があり、壊れた椅子が幾つか置いてあった。埃だらけでずっと使っていない建物に思われた。左側は受け付け窓口、右側は採血室入り口で、ドアを開けて採血室に入ると中央の採尿用トイレを挟んで両側に2つの採血室がある。その先は幅が2メートルほどの中央廊下となり、左右に試験室が並んでいた。左側手前から血液と尿の一般検査室、その先は血液生化学検査室、血清免疫検査室、滅菌室などが並ぶ。このうち血液生化学検査室と滅菌室は鍵がないから入れないと言われた。廊下の右側は手前からスタッフ・ルーム、空調特別室、スタッフ用トイレ、細菌検査室、病理解剖室で、このうちスタッフ・ルームと空調特別室は鍵が無くて見られなかった。
それらの試験室を見て気付いたことはほとんど機械がないこと、あっても壊れていて使えないことであった。故障していないものは乾熱滅菌機や冷蔵庫のように直接検査に役立たないものばかりだった。細菌検査室には骨董品のような孵卵器や、手回し式遠心分離機など昔の珍しい機械があって驚いた。病理解剖室には文字通り何もなくゴムホースが1本転がっていた。見るべきものはないというのが我々の感想であった。
午前10時40分、再びニロ先生の部屋へ行く。そうしたら、そこに中央検査科の副部長がいて紹介された。彼はパスカル・ニコロという名の中級臨床検査技師であった。インテリらしい黒ぶちメガネをあけ、グレーの開襟シャツを着た、落ち着いた中年紳士であった。部長はロレンサ・マンデラという女性で今は長期休暇をとって南アフリカに旅行中とのことであった。彼女も中級臨床検査技師で、中級とは病院と同じ敷地内にある国立医療従事者養成所を卒業したものを言い、上級は大学卒、初級は職業高校卒を言うそうだ。この病院には上級3名、中級20名、初級35名、合計58名である。中央検査科に医師はいない。パスカル副部長は病院の近くに住んでおり、先ほど野球帽をかぶった救急検査室の男が鍵を貰いに行ったとき、日本から調査団が来たことを知らせたので、急遽出勤してきたとのことであった。
私がパスカルに質問した。「病理組織検査をしていますか?」彼が答えた。「していません」「では、パラフィン包埋器など要りませんね?」「要りません」と、彼はあっさり答えた。アンゴラ政府が出した要請書にはパラフィン包埋器ほか病理組織検査に使用する機器がリストアップされていた。
「要るぞ、使っているではないか」とニロがさえぎった。「いいえ、使っていません」とパスカル。「ツエーデル油のことではないか?」と私がニロに訊いた。「そうだ」とニロ。ツエーデル油は顕微鏡検査に使う油で、パラフィン包埋器とは全く違う。
「将来、中央検査科で病理組織検査を行う予定がありますか?」と訊くと、パスカルは「ない」と答えた。きっと病院の実情を知らないものが要請リストを作ったに相違ないと思った。
「機材台帳がありますか?」と私。「ありません。ここに仕舞ってあります」とパスカルは自分の頭を指して言った。「それじゃ、紙に書いてください」と紙とペンを渡すとパスカルはニロのデスクを借りて書き出した。「CPA=1、PLUS TM=1、SABIS=1」これじゃ判じものみたいで、何が何だか判らない。それに彼は10項目ほど書いたら止めてしまった。それだけしか覚えてなかったようだ。
CPAとか、PLUSとかはメーカーがつけた名前らしい。サニーとかコロナというに等しい。知らない人はタバコかと思う。自動血液生化学分析機などと書いてくれれば判るのに・・、どうもパスカルは単細胞のようだ。
「もう一度、中央検査科を見ますか?」とパスカルが訊いた。「見たい」と答えた。そうすると、驚いたことに、ニロが自分のデスクの抽斗を開けて鍵を取り出すではないか!その鍵は中央検査科の内側扉の鍵であった。ニロは最初から鍵を持っているのに、外に回り東側玄関まで我々を連れて行き、「鍵がない」と大袈裟に両手を開いて見せたが、実際は病院の中央廊下から直接中央検査科に入る扉の鍵を持っていたのである。
我々はパスカルに従って中央廊下から新館に入り、2階のドアを開けて中央検査科に入った。入って直ぐの部屋は滅菌室で先刻は、「鍵がかかっていて入れない」と言われたのに、鍵がかかっていなかった。「何だ、鍵があいていたではないか」と、我々はキツネにつままれたように感じた。一層驚いたことには滅菌室の戸棚に鍵束が置いてあり、その鍵でさっき入れなかった部屋がすべて入れることが分かった。先ほどはニロ先生にこそこそ秘密の命令を受けた野球帽の男が大事な部屋を見せないために滅菌室をパスしたらしかった。
滅菌室にはブルガリア製の縦型電気式高圧蒸気滅菌機が6台あったが、皆見事に故障していた。そのほか乾熱滅菌機が1台あり、これは使っているようであった。ここでは水質が悪い上に断水が多いので、高圧蒸気を使用する機械が故障しやすいようであった。
生化学検査室には自動血液生化学分析装置があった。これは1980年に供与されたもので、「故障している」とパスカルが言う。救急検査室にも同型のものがあり、そこでは、「試薬が入手出来ないから使用していない」と言っていた。
10年前に供与された自動電気泳動装置もあったが、これは付属品がなくて最初から使用していなかった。炎光光度計も10年前に供与されてあったが、使い方が分からないので、未使用であった。この部屋で使えるものは、微量ビリルビン計測器、分光光度計、電子天秤、定電圧トランス、冷蔵庫だけだった。
空調特別室へ行く。これは私が命名した部屋であるが、年中クーラーを運転して一定の室温に保っており、貴重な機材が保管されていた。パスカルがCPAと略記したフランス製自動血液生化学分析装置が鎮座していた。これは1988年に病院が購入した代物で、ニロが我々の目に入れたくないと画策していたものである。すでに有るものは要請リストから外されることをニロが知っていたからである。パスカルは知らないから、あっさりと見せてくれた。
双眼顕微鏡が8台もあり、2台は日本のオリンパス社製であった。また自動血液凝固測定装置もあった。これらは使用可能であった。
2月28日、新館1階、救急部門のレントゲン室を見に行く。放射線科のロザリア女医先生とアントニア技師が案内した。アントニア女史はニロから鍵を借りてきてドアを開けようとしたが、開かない。それでもう一度ニロの部屋まで歩いて行って別の鍵を借りてきて開けようとしたが、それでも駄目。30分ほど奮闘したが、駄目だった。
2.耳鼻咽喉科の要請
我々は案内なしで病院内を歩きまわっているうちに、2階建て新館の外来棟1階に耳鼻咽喉科があることを発見した。聴力検査室を調べていたら隣室から白い開襟シャツを着た30代の愛想の良い男が出て来て、「ボクは耳鼻咽喉科の責任者でドクター・フェリペ・マトウバというもの」と自己紹介した。彼は大学教授を兼ね、アンゴラで数少ない耳鼻咽喉科の専門医であった。帝京大学の鈴木諄一教授を知っていて、あとで手紙を書くから届けてくれとも言った。
我々の用件を知った彼が先に立って案内してくれた。隣室は医局で医師は4名いて、そのうち2名は外国人であり、その他インターンが2名いる。今は夏休み中だが、普段は学生が実習に来ているという。医局で手術や処置に使う額帯電灯を見せてくれた。「これは1つしかない。もっと欲しい」と言った。それから耳鼻咽喉科用の椅子と治療ユニットが1つしかないので、医師の数だけ欲しいとも言う。
医局の先は講義室で、小さいながらも清潔で、よく整頓されていた。新学期が始まると学生が来るので視聴覚設備が欲しいとのことであった。その先は物置で、なかにスイス製の手術用双眼顕微鏡があった。「これはスエーデンの知人が個人的に寄付してくれた。1人でしか使えないので、2人で見られる手術用双眼顕微鏡が欲しい。そうすれば、手術を教えられる」と言った。
アンゴラには子供の中耳炎が多い。慢性化して骨の乳状突起炎を合併するとなかなか治らない。その上耳が聞こえなくなる。治療のために顕微鏡を使って乳状突起を手術しなければならない。そういう患者が多いので専門医を養成する必要がある。そのために2人で見る顕微鏡が欲しいとのことである。
マラリアも多い。抗マラリア薬の副作用で脳神経の1つの聴神経が冒されて難聴になることがある。この予防と早期発見のために聴力や聴神経の検査をする機械が必要である。彼の熱心さは聞く人の心を打つものがあった。
耳鼻咽喉科では欲しいものがいっぱいあり、しかも責任者のマトウバ先生は大学教授でインターンや学生の指導をしていると言う。それで我々は彼の要望に答えて追加機材としてリストに入れても良いのではないかと思った。それでマトウバ先生と共にニロ医局長の部屋へ相談に行った。
「機材要請リストに追加すべきものがあるので、機材名を入れた新しいリストを作り、保健省を通じて提出してください」と言うと、ニロ先生は意外な言葉を口にした。「あのリストは日本側が作った」「ノー、とんでもない!あれはアンゴラ政府が出してきた要請です」と抗弁すると、ニロは薄気味悪い笑いを顔に浮かべて、「リストを作ったのは病院ではない。保健省があれを持って来て、『日本政府がくれる機材のリストだ』と言った。あれを病院側が変更してはならないと信じる」と言う。「いいえ、実情に合わなければ変更しても良いのです」と日本調査団側の意見を言うと、「ボクが病院スタッフに、『追加機材はないか?』と訊けば、『あれも、これも』と言い出して収拾がつかなくなる。そしてリストがすっかり変わってしまうことも有り得る」とニロが答える「ある程度は入れ替えが可能です。我々は病院で優先度が高いと思われるものを提供したいと考えています」と五代儀。
それでニロ先生が言った。「リストは泌尿器科、眼科、循環器科、歯科などが不完全だ。各科の責任者に問い合わせてみたい」その間マトウバ先生は余り喋らない。「耳鼻咽喉科では治療用椅子とユニットが欲しい」と小声で言っただけである。あとは後のほうで小さくなっている。我々にはあんなに雄弁にまくしたてたのに、ニロの前に出ると借りてきた猫のようである。彼は余程ニロが怖いらしい。一方ニロはマトウバがいるので一層高姿勢になっているようであった。
2月22日、保健省と調査団との間に議事録(ミニッツ)の調印がなされ、日本の無償資金協力のやり方をアンゴラ側が了解したことになった。団長の寺尾始め、ロンドンから来たJICAスタッフも、国際医療センターの椎名も任務が終わったため、明日帰任することになった。しかし、病院を調査した結果、耳鼻咽喉科、眼科などリストにない機材を必要としていることが分かったので、追加要請機材を3月1日午前10時半を期限として受け付けることにした。我々民間調査団員は残って追加機材の確認と、要請リストのなかで不必要なものや、既に購入してダブったものがないかどうか調査することになった。
2月28日、期限には早いけれどニロのところへ様子を見に行くと、「追加機材はない」とにべもない返答であった。「何故ですか?」と訊くと、「各科の責任者が書類を取りに来ない」と彼はテーブルの上の書類を指差した。そこにはアンゴラ側が要請してきた機材のリストがコピーされてあった。各科の長にリストを見せて、リスト以外で必要な機材があったら申し込ませようというハラであった。
「取りに来なければ配ったら良い」と言うと、「ボクが配って歩くのか?」と訊く。「自分で配らなくても、誰かに頼めば良い」と五代儀が子供に言うように言った。しかし、ニロはにやにやするだけで答えない。お前らの指図は受けないと腹のなかで言っているようであった。人を馬鹿にしていると私は思った。
彼は徹底して非協力と決めたようだ。我々が揃って話に行っても、忙しそうに電話をかけていたり、ノートに目を通していたりして相手にしない。話すときも正面向いて話す姿勢がない。気もそぞろといった具合である。自分の懐に何も入らなければ、手伝う必要がないといった態度である。彼は、「ボクの月給は20ドルにも満たない」と恥かしそうに言ったが、患者から金を取っているらしい。あるときノックもせずにドアを開けたら、ニロが札束を手にしていたことがあった。彼はこの部屋で診療も行っている。「国立病院だから金は取らない」と言っても陰では取っているようだ。
私は彼に賄賂をつかませたら協力的になるだろうと思った。しかし、賄賂を使ってまで依頼しなければならないことであろうか?機材供与はアンゴラの国の利益になることであって、日本の利益にならない。国民の血税を払ってまで機材供与をしようと言うのだから、気障が少なければそれだけ日本の利益になる。ニロが協力しなければ追加が少なくて済むから日本としては助かる。賄賂を使ってまで追加の催促をすることはないと思った。
3月1日午前10時半、約束の時刻に我々は保健省へ行ったが、誰も来ていなかった。待っていると10時55分になって機材局長のロザ・ネト−氏と2人のスタッフが来た。そして「追加機材リストはまだ出て来ない」と言う。「それじゃ、期限を延ばしましょう。3月6日午後3時まで待ちます」と五代儀が提案した。第三世界との交渉に慣れた彼のことだから、少しぐらいでは挫けない。忍耐が並外れにあり、人間の容量が大きい。「ニロ先生は相手になりません。カウンターパートを替えてください」と五代儀が局長に言った。ニロを交代させるとしたら誰が良いか。五代儀は耳鼻咽喉科のマトウバ先生が良いと言っていたが、果たしてマトウバで上手く行くのであろうか?彼は1人でいるときは威勢が良いけれど、ニロの前に出ると蛇に睨まれた蛙のようにおとなしくなって何も言えない。ニロを凹ませる人でなければカウンターパートが勤まらない。そう思うと病院内に人がいない。
なぎさちゃん、五代儀さんは我慢強い人なので、約束を破られても怒らずに期限を延長することにした。おじいちゃんは我慢が足らないから、そういうことは出来ない。「向こうが悪いのだから、これで交渉を打ちきる」と宣言するだろう。でも今回は五代儀さんがついて来たので怒らずに済んだ。
それに、なぎさちゃんあての手紙を書き出してからは、ものごとを客観的に見るようになり、怒る気がなくなったこともある。しめしめ、書く種が増えたと内心ほくそえんでさえいる。思えばアンゴラ共和国については書く種がいくらでも転がっている。次回を楽しみにね。
第11章 その他の病棟
なぎさちゃん、
元気かい?お父さん、お母さん、それに妹のなつきちゃん、なるみちゃんたち、みな元気でいるだろうね。遠く離れていてもお前の一家はおじいちゃんの心のなかに生きている。1人1人の顔を思い浮かべるとおじいちゃんの気持は安らぐのさ。アンゴラに一緒に来ていた日本の人たちは殆ど帰ってしまい、あとに残ったのは五代儀、渡辺、それにおじいちゃんの3人になった。猪狩さんは南アフリカへ行ったからまだ、日本へは帰らないけれど。
この3人で張りきって病院内外を見て回っているよ。今日はこれまで見た病院内の施設について書く積もりだ。
1.医療機材のメンテナンス係
副薬局長の案内でメンテナンス係、つまり修繕係を見に行った。妙なことだが修繕係が薬局に属していた。普通は事務長に属するとか、総務部に属するとかするのだけれど、薬局長に属するとはどういうことだろう。
場所は5階建て新館の1階最西端にあり、かなり広い面積を占めていた。責任者はプロスぺロ・ダ・シルバ氏で工業高校卒の技師である。16年もこの病院に勤務しているベテランだ。部下に3人の技師がいた。オシロスコープ1個、テスター1個、それにハンダ鏝1個と少量のハンダ線だけが彼らの修理道具である。これで故障続出の医療機械と格闘しなければならない。
もっとも格闘はとっくの昔に諦めており、あとからあとから運び込まれる機器はそのまま山積みにしておき、自分たちは別な仕事をしている。それはメシの種になる副業、つまり個人用テレビのい修繕である。そのためにスト中にもかかわらず、全員が出勤していた。
我々が入って行っても決して悪びれる様子がない。机の上に載せられたテレビが3台、内臓をさらけ出して修繕してもらっている。
一方、周囲に放置された医療機械は、日本の心電計(フクダ電子、フクダME各1)、ドイツ製除細動器2台、ユーゴ製患者監視モニター4台、ドイツ製手術器具洗浄装置1台、ドイツ製手術用吸引機1台、日本製酸素テント2台(アトム)、ドイツ製電気メス2台、英国製全身麻酔機1台、その他もろもろ。倉庫のように広い室内がガラクタの山で、故障医療機器国際見本市のような観を呈していた。
1人1人と握手して、「どうですか、忙しいですか?」と問うと、「まあまあです」と答が返ってくる。「テレビを直しているのですか?」と私。「病院の職員のテレビです」とシルバ氏。「医療機械は直さないのですか?」「直そうとしていますが、部品がなくて」すると五代儀が言った。「部品を買えば良い」「部品を買う予算がない」とシルバ氏。これじゃ話にならない。ここの技師が直すのを待つより町の機械屋さんで直してもらった方が早い。
しかし、病院では修理費を払わず、機械屋さんも相手にしなくなった。メンテナンスはあっても、ないようなものだ。
2.整形外科の病室
その後、ひょんなことから整形外科の女性病棟に来てしまった。敷地が斜面である関係から南側は1階、北側は地下室になった建物があり、中央廊下を歩いている限り、そのようなところに病棟があるとは気付かない。偶然にも我々がそこへ立ち入ったのは、案内なしに外に出て、西側敷地にある貯水タンクを見たからである。そこから病院建物に戻ろうとしたとき、半地下室の入り口にたまたま建築会社「コロド」の看板が出ていた。おやっ、これは建築会社の仮事務所かな?と思った。ニロ先生が、「病棟の改修工事を請け負ったコロド社へ行けば図面がある」と言ったので訪問したいと思っていた矢先であった。これ幸いとばかり狭い入り口を入って行った。
すると、そこは建築会社のオフィスなんかではなくて、病室であった。しかも改修工事を終えたばかりの清潔な病室で、これが混沌限りなきジョシナ・マシェル病院の一部とは思えない。まるで別天地である。キツネにつままれたような気がして一緒に来た五代儀・
渡辺と顔を見合わせた。
南側に幅2メートルほどの廊下があり、その北側に2つの大部屋があり、手前が女性、奥が子供用の病室で、両方で37ベッドあった。床と壁には真新しい白い磁器タイルを張りめぐらし、天井には白ペンキを塗り、細長い蛍光灯が部屋を明るく照らしていた。ベッド、マットレス、シーツはどれも新品である。入院している患者も明朗闊達。我々が行くと歓迎してくれ、私がカメラを持っていたので、「写真を撮ってくれ」と注文があった。こんな経験はアンゴラに来て始めてである。
左手にナースステーションがあると言うので行ってみた。すると折りから中年の肥った看護婦が痩せた女性事務員に手伝ってもらい、動かなくなったデスクの引出しを引っ張り出そうとしていた。2人の女性は引出しを何とか引っ張り出そうと、へっぴり腰になり、ガタピシいわせながら、上下左右に揺り動かしていたが、やがて何かのはずみでス−ッと抜けた。事務員はその場を離れ、看護婦は引き出しのなかからボールペンを取り出して胸のポケットに突っ込んでから後を向き、そこに我々3人がいるのに気付いた。今までしていた力仕事で息を切らしたらしく、しばらくは口をきけないでいたが、やがて呼吸を整えて相手をしてくれた。
彼女は病棟婦長で、ここは医師3名、看護職員25名が勤務している。患者は主として骨折で、牽引療法で回復しており、手術は稀である。週1例ぐらいの手術がある。
我々はこの病院で初めてちゃんとしたユニホームを着て、看護帽をつけた看護婦らしい看護婦に出会い、夢ではないかと喜んだ。どうしても同じ病院とは思えなかった。
中央廊下に戻ると女の泣き声がする。声の方向へ辿って行くと、今訪問した半地下式病棟の上にあたる病棟から聞こえてくることが分かった。そこは中央廊下から直に入れる西側1階病棟で、ただ今は改修中の一画であった。壁も床も天井も表面の漆喰を剥がして荒壁を露出し、辺り一帯埃だらけになっている。泣き声はそのなかに一室から漏れてきていた。
古い木のドアを開けると手術台の上に丸裸の女性が寝ていた。周囲に男たちが立ってギブスを巻いている。女性は骨盤骨折の患者であった。麻酔もかけずにギブスを巻くものだから痛がって泣き叫んでいた。
足をこちらに向け、またを開いているものだから黒々とした陰部が正面から目に飛び込んだ。次は盛り上がった乳房、それから泣きはらした顔、鼻の穴を広げ、目玉を飛び出した恐ろしい形相が見えた。
「これ失礼」と私は言ってドアを閉めた。一瞬であったが、光景は目に焼きつかれた。それはジョシナ・マシェル病院そのものの姿であった。不潔で混沌として醜悪猥雑、阿鼻叫喚の地獄図絵を見るようであった。
それから中央廊下を隔てた東側の病棟に入り、私は見てはならないものを再び見る羽目になった。そこは男性の整形外科病棟で、116年も経つ古い建物なので、足を踏み入れるやいなや陰湿な空気がからだを取り囲む気がする。南側が廊下で、北側が2つの大部屋になっているのは女性用病棟と同じである。違うのは鼻をつく悪臭とうんうん唸る男の声が聞こえてくることだった。
それは廊下の中央にストレッチャ−を出して、その上に1人の若者が仰向けに寝ており、悪臭と唸り声はその若者から出ていることが分かった。ストレッチャーの周囲には白衣を着た数人の男たちが立ち並び、若者のからだを押さえつけたり、沢庵大根のようにしなびて細くなった黒い足を持ち上げていたり、ピカピカ光るピンセットを手にして足の傷の治療をしていたりしていた。
若者は下腿骨骨折の患者で長いことギブス固定していたため、足が細くなり、その上ギブスが当たって傷が出来、化膿したようであった。ストレッチャ−の上には取り外したばかりのギブスの殻と内側に巻いてあった包帯が載っていた。
思わずギョッとしたのは、包帯に集まったハエの群れを目にしたからである。ハンカチぐらいの大きさの包帯の部分が真っ黒に変色しており、それが無数のハエと分かった。それらは包帯の上でうごめき合うばかりでなく、回りを飛んでいた。包帯についた膿を舐めようと集まったのである。窓には網戸がついてないし、空調がないため開けっぱなしなので、ハエが匂いに誘われてやって来たのでああろう。
アンゴラには熱帯下腿潰瘍が多いと聞いた。ハエが媒介するスピロヘータがついて出来る難治性潰瘍で、いま目にしているハエ1匹1匹がスピロヘータを運んでいるかと思うとゾッとした。患者に取りついて治療に従事している人たちは痩せた若者ばかりで、誰も無口で憑かれたように仕事に熱中しており、我々が見ているのも知らぬようであった。
渡辺が病棟で寝ている患者たちに声をかけて聞いたところでは、交通事故が多く、それに強盗にやられた者が多いと。「ここは恐ろしい国だ!」とは渡辺が恐怖にかられて言った言葉である。
3.集中治療室
整形外科の男性病棟の近く、中央廊下を西側に折れたところに集中治療室があった。ここは19ベッドなのに2人しか入院していなかった(別な日に行ったら1人になっていた)。2人とも子供で、破傷風の患者だった。付き添い人はなかに入れず、ユニホームを着た男女スタッフ4名が働いていた。働いていたと言ってもやることが無いので、スタッフ・ルームに座っているだけであった。退屈したらしく我々の姿を見て愛想よく室内を案内してくれた。中央のガラス張りの本来はナースステーションであるべき場所が物置となり、故障した医療機器の置き場になっていた。これを挟んで2つの廊下が平行して走り、廊下の外側にガラス張りの個室が幾つか配置され、奥の突き当たりは10ベッドの大部屋となっていた。
大部屋に入院しているのは7才と10才の少年2人で、首と背筋をピンと伸ばしたきりで曲げることが出来ない。それに口を開けることが出来ず、歯を食いしばり、唇を開いて白い歯を見せており、これは典型的な『痙笑』の表情であった。廊下には破傷風患者の統計グラフが貼られており、ここに破傷風患者が多数入院してくることを知った。
4.小児科病棟
事務室と耳鼻咽喉科外来などがある2階建て新館へ行った。1階に何があるか見たいと思ったからだ。そうしたら、驚いたことに小児科病棟となっていた。病院の説明では昨年10月に国立小児病院が開業したので、小児科はなくなった。それに替わって小児外科を開設するからそのための機材を供与してくれとのことであった。説明から考えてジョシナ・マシェル病院には小児病棟はないと判断し、報告書に、「小児外科拡充の予定があるけれど、小児科はない」と書くところであった。病院側は誰も言及しないし、案内もしてくれなかった。それなのに帰国間際になって入り込んだところが小児科病棟だったとは。
病棟は中央に約2メートルの廊下があり、その左右に1室8ベッドで6室あり、合計48ベッドであった。その他にナースステーション、処置室、スタッフルームなどもあった。スタッフは医師16名、看護スタッフ30名でこれが4チームに分かれ、シフト制で交代勤務していた。
看護士の説明によれば、「小児科の急患が来ると、隣接する国立小児病院で診察し、症状が重くて帰宅できない場合にはジョシナ・マシェル病院のこの病棟に収容する。ここには24時間対応する放射線科や小児外科があるからである。手術を要する小児患者は新館5階の混合病棟に移し、小児科として長期の入院を要すると判断する場合には国立小児病院へ移す。従って、ここに置くのは2日から7日の短期である」とのことであった。つまりここは小児科救急患者の収容病棟で、応急処置を行うと同時に、振り分ける機能を持つ。また国立小児病院が満床の場合の一時預かり所にもなる。
病院幹部がなぜ有りのままの姿を見せないのか、不思議でならない。彼らが言うべきなのは、「国立小児病院が開設しても、まだここに48ベッドの小児科病棟が残っている。だから機材が欲しい。小児外科は現在3室11ベッドがあり、近い将来60ベッドに拡充したいから、ここにも機材を欲しい」と正直に言って良い。それなのに、「小児科はなくなった。小児外科を設置したいから機材をくれ」と強弁し、残っている小児科病棟を見せないのはおかしい。
5.セントラル・サプライなし
リスト中に高圧蒸気滅菌機2台の供与要請があるので、てっきりセントラル・サプライ(中央材料室)があるのかと思ったら、なかった。手術室には専属の乾熱滅菌機が2台あり、1日2回の回転をして手術材料の消毒をしていた。病棟用には1つの部屋に集中して2台の高圧蒸気滅菌機があったが、2つとも故障していた。そして1つの乾熱滅菌機が代用されていた。外来棟では歯科・口腔外科の処置室に乾熱滅菌機が3台、耳鼻咽喉科に大型の乾熱滅菌機が1台置かれてあった。中央検査科では高圧蒸気滅菌機6台が故障し、乾熱滅菌機が使用されていた。各入院病棟には乾熱滅菌機が置かれてあった。
結局、各科ごとに材料作りをして滅菌していることが分かった。恐らくシステムはポルトガル式に違いない。アメリカ式のセントラル・サプライに慣れた目には、なんて無駄をするのかと奇異に写る。
血液検査も中央検査科にまかせれば良いのに、救急室と集中治療室でもやっている。また心電計と超音波診断装置は5階建て新館の4階の循環器科にあるし、脳波形は2階の脳外科にある。これらも放射線科にまとめれば便利ではないかと思った。
なぎさちゃん、ジョシナ・マシェル病院は名前は良いが、内容はそら恐ろしい。丈夫な人でも病気になってしまうのではないかと思うほどのひどさだよ。
でもね、おじいちゃんが医者になりたての頃の日本の病院もそうだった。特に地方の公立病院ときたら、汚くて臭くて、患者の人権蹂躪もひどかった。そういうところでトレーニングを受けたので、ジョシナ・マシェル病院を見ていると、自分が医者になりたての頃に見聞した田舎の病院がダブってくる。日本は幸いにも、アメリカ進駐軍の強制的な指導ですっかり改善されたのだ。
なぎさちゃん、地獄のようなジョシナ・マシェル病院もやり方しだいで良い病院に一変する。それは同じルアンダ市内の他の病院を見学したとき痛感したのだ。
じゃね、バイバ〜イ!
第12章 国際機関を訪問
なぎさちゃん、もう3月になり、日本も春だね。今年の冬は特別寒かったから、春も遅いかも知れないが、3月ともなれば草の緑が萌えだし、花が咲き始めるころだね。
日本は四季の移り変わりがはっきりしているが、ルアンダは熱帯性気候で1年中暑い。海岸で紫外線が強いのでなるべく直射日光に当たらないようにしていても、すっかり日焼けしてしまった。
3月8日早朝、引き揚げと決まり、今や仕上げの段階と言いたいところだが、一番大事な病院の予算と図面が入手出来ない。どのツラさげて帰国出来るかと憂鬱だ。せめて国際援助機関を回って情報を仕入れたいと思って訪問したのが、この報告だよ。
2月19日、国連ルアンダ事務所を訪問。「予約がなければ駄目」と玄関払いを食った。それで協力省のアジア・オセアニア局長に紹介を依頼したが、拒否された。次いで外務省のアジア・オセアニア局に勤務する事務官に依頼したら、「金を出せ。紹介手数料だ」と言われて引き下がった。
1.
WHO(世界保健機関)
3月1日、所長エマヌエル・エベン・モウン医師と懇談する。彼はカメルーンの医大の教授で、アンゴラに6年駐在したと。この3月末にコート・ジボアールのアビジャンに転勤する予定だと言う。アンゴラ政府に対して悲観的な見方をしており、
「アンゴラ保健省は開発計画もなければ、システムもない。中央も地方も保健組織は崩壊して、再建のメドが立たない。サービスもない。病院、保健センターなどの保健医療活動は低下した。
プログラムもない。予防接種プログラム、給食プログラム、エイズ対策プログラム、家族計画プログラムなど、そのいずれもにない。人材、資材、医療機材もない。
英国、イタリ−、オランダ、ノルウエー、スエーデン、ベルギー、ポルトガルなどの外国援助はあるが、効果的でない」
ジョシナ・マシェル病院の問題点を訊くと彼は、「病院では毎月子供が500人も死亡している。鉄筋コンクリート5階建ての新病院建築が中断されているが、あれは資金があったにもかかわらず、病院幹部が浪費したからだ。
WHOは焼却炉を供与したが、何年間も梱包のまま放置して使用しなかった。管理者が無能だ」と手厳しかった。
日本政府の機材供与に対する助言として彼は、「病院規模を小さくしなければいけない。大病院の管理は困難だから300ベッドぐらいにすべきだ。また保守管理の技術者を日本から派遣して少なくとも6ケ月は駐在させるべきだ。患者から診療の料金を徴収して機材の維持管理と消耗品の購入に当たらせなければならない。
また、電力と水の確保が必須で、これがなければいくら機材を供与しても無意味だ。
同時にスタッフの士気を向上させるすべを考慮せねばならない」と有益な意見を聞かせてくれた。
3月5日、五代儀とともに再訪問。エマヌエル先生は更に突っ込んだ意見を聞かせた。
「アンゴラの悲劇は第1に社会主義をとったことにある。この弊害が余りにも大きかった。第2に内戦で国力が疲弊したことがある。特に1992年〜93年の戦争では1日に1000人も死ぬことがあった。300万人が戦争の被害にあっている。第3にインフレだ。こうしたことが重なって保健状況が悪化した。改善のためには大変な努力が必要だ」
我々が1ケ月近くも滞在して調査をしていると聞いて彼が訊いた。「それじゃ、アンゴラの新聞を読んでいますか?」「いいえ、私たちはポルトガル語を読めません」と答えると、彼は背後の書棚から1冊のスクラップ・ブックを取り出して、「通訳がいるではないか。滞在中でも毎日の新聞を読まなければいけない。そして必要があれば、このように切りぬいておくべきだ」と言い、最近のアンゴラ・ジャーナルの1ページを見せた。
そこには、「保健省のコンテナーが大量にルアンダ港に着いた」と書かれてあった。
「これはあなたがたにとって貴重なニュースだ。こうした記事を見逃してはいけない」と彼は言った。しかし、このときは何が貴重だか、判らなかった。彼が我々の任務に関する重大なニュースが報道されていることを教えようとしていたのに!
2.
UNDP(国連開発プログラム)
3月4日、バーバラ・ピアッツァ・ジョルジ女史と面談。UNDPが現在行っている活動状況を知らせて貰った。彼女によると、「我々は第1に技術援助を行政組織に提供している。第2にコミュニテイ再建である。これはウワンボ、ウィジェ、マランジェなどの主要な州を選んで、保健医療施設、教育施設、住宅、道路の建設、生産の促進などに協力をしている。第3には国家的和解で、兵士の武装解除、職業訓練、社会復帰などに協力している。第4に地雷除去、第5に現地人の育成と能力向上を図ることなどである。問題は公務員の給料の安さと、反対党UNITAとの和解である。
UNDPは2国間協力に対する助言と調整も行っているので、日本が援助を開始するに当たっては、必ずUNDPに連絡して貰いたい」と。
彼女はUNDP報告書と1995年9月のアンゴラ援助機関円卓会議議事録をくれた。報告書には次ぎのことが書かれてあった。
「第1章 アンゴラの危機」と題して次ぎのようなショッキングな状況説明がされている。
「アンゴラは20年間の内戦を終えた現在、石油、漁業以外の全産業が壊滅し、経済の破綻と社会荒廃の姿を世に現した。人口の3分の1は戦争の直接被害者となり、10分の1は故郷を捨てざるを得なくなった。今や大部分のアンゴラ人は初等教育、保健サービス、安全な飲料水から遠ざけられている。
海岸と内陸を結ぶ鉄道網は機能が停止した。ルアンダとマランジェを結ぶ北部線は完全に不通。ロビトとザイレ、ザンビアと結び、アンゴラを東西に横断するベンゲラ鉄道はロビト=ベンゲラ間に短い海岸線しか走らない。また南部線はナミベ=ルバンゴ間しか走らない。道路網は地雷と治安悪化により、部分的にしか通じていない。貨物輸送は高価な航空便に頼るしかないので、商品は少なくなり、物価騰貴を招いた。
電力と水の供給は悪化し、カシト、サリモ、クイト、ウィジ、ウワンボのような都市では電力と水の供給がストップしている。
地雷の数は200万個と推算され、これは世界で3番目に多い国である。地雷に触れて歩行障害を来たしたものは7万人にのぼる。町の周囲に敷設された地雷は都市と農村との
商品流通を阻害すると同時に農民が耕作するのを妨げている。
生産について。アンゴラはサハラ以南の豊かな農業国のひとつとなるべきだったのに、農業生産は10年間低迷した。1994年には小麦は26万トンしかとれず、これじゃ80万トンという総需要の3分の1にしかならない。トウモロコシは1993年の85万トンから1994年の19万6千トンにおちた。
コーヒー生産はかっては世界第3位を占めていたが、1994年には5千トンしか生産されず、これは独立前の2%にしか過ぎない。
ダイヤモンド生産は石油に次ぐ重要輸出産業であったが、1971年の240万カラットから1993年の4万6千カラットに激減した。
教育システムは学校建物の破壊のために重大な低下をきたしており、ウィジでは小学校が83校あったのが、現在は1校しかない」
また、「第11章 社会・教育部門の再建プログラム」では
「1995年のクワンザ・ノルテ州とマランジェ州の保健ネットワークは10%しか機能していない。人口にもとずくデータに乏しいが、おおよそ次ぎのように言える。
1.今や栄養失調が全国に広がっている。
2.経口感染症が頻発しており、1994年、コレラがベンゲラ、ベンゴ、クワンド・クバンゴの各州で、赤痢がウワンボ、ウィラ、ルアンダで流行した。
3.急性伝染性下痢症と急性呼吸器感染症が高度に蔓延している。
4.結核、髄膜炎、重症マラリアが国中に生じており、とくにカビンダ、ルアンダ、ベンゲラに多発している。
5.眠り病は1987年までに解決したかのように思われたが、1994年、モニター制度が崩壊してから再び蔓延しだした。800例以上の新患者がザイレ、ベンゴ、クワンザ・ノルテ、ウィジなどで登録された。
ユニセフによれば、ルアンダでは5才以下の死亡は17%の頻度で起こり、ルアンダだけでホームレスの子供が4千人おり、他の都市でも同じような状況である」
3.アジア医師連盟AMDA
2月21日、田村佳久医師と面談。彼は北海道富良野町の山部厚生病院に副院長、外科医として勤務していたが、北海道佐呂間町永代の佐呂間厚生病院に転任することになり、その間に3ケ月の休暇をとってボランティアとして昨年12月にアンゴラに赴任。本年3月11日に帰国する。彼の説明によると、
「AMDAは昨年8月アンゴラに到着。NGOとして登録申請をしていたが、最近になって認可され、自動車の免税購入と無線機使用が可能となった。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から2500万円の創設資金を割り当てられ、ウィジェ州サンザボンベ町のムニシパル病院(郡立地域病院)の診療活動を支えている。
そこへ行くのにはルアンダから自動車で13時間かかる。これは途中の道路に地雷があって通れないので迂回するからである。週1回、フランス系の航空会社が飛行機を飛ばしているので利用することもある。彼ともう1人の日本人男性の鶴藤氏と一緒にコーディネーターの役割を果たしている。
ウィジェには日本人看護婦の三浦美紀と高田ユミ子の2名、バングラディシュの医師1名、ネパールの医師2名が働いている。町の人口は2万人だが、周囲60キロの範囲から患者が来るので約10万人の人口をカバーしている。
病院の建物は破壊されて骨格ばかりになったのを修繕し、雨露を凌げるようにして2部屋を使えるようにした。1部屋は診療室、1室は10ベッドの入院施設としている。電気も水道もない。川の水を飲んでいる。この病院は本体50ベッドあった。
外来患者は1日200人ほどあり、6割はマラリアである。全住民がマラリアを持っており、AMDAスタッフも8名中6名がマラリアに罹った。田村も今年1月に熱帯熱マラリアに罹患、3日間も発熱に苦しんだ。普通マラリア患者にはクロロキンを与える。半分はそれで治るが、半分は治らない。
その他多い病気は疥癬で、これはヒゼン・ダニというダニの一種の小さい昆虫が皮膚のなかに入り込んで生じる。患者との接触や、着物、寝具などを介してうつる。家族内感染が多く、家中で病院にやって来る。潜伏期間は1ケ月。就寝後、激しい痒みが生じて掻いた爪痕が傷となり、化膿したり、潰瘍になったりする。軽い人はオイラックス軟膏、化膿や潰瘍にペニシリン軟膏を使う。
スタッフの月給として1人当たり700ドル出す。日本人は3ケ月交代として飛行機代を人件費に加算するので全支出のなかで人件費の割合が大きい。それでUNHCRから人件費の割合を減らせと求められている。病院設備を改善したり、薬品を購入したりしたいので日本政府からの資金援助が欲しいとのことであった。
幸い同席した在ジンバブエ大使館の小路康雄1等書記官が、「日本大使館ではNGO支援のための予算を計上することが可能だ。正式に申し込んでくれ」と助言した。私は日本から持参したドイツ製聴診器1本と、水と食塩とから消毒用酸性水を作製する装置を寄付した。
田村先生はルアンダ市内のジョシナ・マシェル病院近くにアパートを借りて住んでいた。3階建ての長屋式住宅で、1階は事務所、2階、3階を寝室とし家賃は1ケ月30万円。敷金込み1年分家賃400万円の先払いを求められたと。水道は2日に1回2時間〜3時間出るだけ、停電は毎日5時間ほどある。
生活の困難さもさることながら、一番手を焼くのはアンゴラ政府官僚との交渉である。約束の時刻に行っても不在だったり、仕事が進んでいなかったりする。それになかなか手続きをしてくれない。ボランティア団体としての認可が6ケ月もかかってしまった。これが出来たのも、豊通の伊丹氏や永大の木下氏のコネのお蔭であった。
なぎさちゃん、日本の若い人たちがアンゴラまで出掛けてきて救援活動をいているとは心強いね。おじいちゃんが若い頃、やりたくても出来なかった。そういう点では日本人も国際化したものだ。
なぎさちゃんが大人になる頃には、もっと国際化が進んで、アフリカへ行くのなんか隣へ行く気分で行けるようになるだろう。その頃は「違う人種」なんて感想がなくなるだろう。
英国人やフランス人は気軽に出掛けるようだ。海外に出る伝統があるのだ。そういう人をコスモポリタンと言う。なぎさちゃんもコスモポリタンになっておくれ。
第13章 急転した事態
なぎさちゃん、3月7日のルアンダ出発を間近にしていろいろなことが起きて、おじいちゃんは息つくヒマもなかった。最後まで心配していた病院の図面と予算書が手に入ったし、アンゴラ政府が買った医療機材も判った。これをドンデン返しと呼ぶのだろうか。
驚くべきことが起こって、それまで青菜に塩としおれきっていた我々3人組み(五代儀、渡辺、私)が手を打って小躍りすることになった。それをこれから語って聞かせるよ。
1.コロド社訪問
ルアンダ出発を明後日に控えた3月5日、民間の建築業者であるコロド社の社長フェルナンド・コレイア氏と面会した。病院が青写真をくれないし、建設省へ何度図面を貰いに行ってもくれない。それで窮余の一策として五代儀が思いついたのが病院の改修工事を請け負っている建築会社へ行くことであった。このまま病院の図面もない、予算書もないでは「お前たちは何をしていたのか!」と叱られてしまう。必死な想いが我々にはあった。我々とは五代儀、渡辺、それに私の3人であった。
午後6時10分、約束の時間。場所は高層アパートの1階にある商店か倉庫か分からない、コロド社のオフィスである。看板は何も出ていない。木製の頑丈なドアがあるだけ。その前に屈強なガードマンらしい大男が立っていた。「コロダ社か?」と訊くと、「そうだ」と答える。彼はもう午後6時に日本人が来ることを聞き知っていたようで、ドアに取り付けられた呼び鈴を押した。
ドアが開けられて狭い室に入ると正面に2階に上がる階段がある。そこを上がって2階の狭い事務室に招じ入れられた。案内したのが社長フェルナンドで、入ったのが社長室であった。社長は小柄な白人で、ポルトガル人。両親がポルトガル人で、彼はアンゴラで生まれた。独立後はアンゴラ国籍をとって残った。「ボクはアンゴラ人だ」と彼は胸を張って言った。
テーブルの上にジョシナ・マシェル病院手術棟の図面を広げて工事の説明をした。
「面積は約600平米。請負い金額は400万ドル。今年4月末が完工期限。
工事費の内訳は医療ガス配管工事費35,000ドル。エアコン工事費86,350ドル(これには日本製の機械代金が含まれている)。非常用発電機59,000ドル(110キロボルト。これでは容量が小さ過ぎてエアコンは動かせない)揚水ポンプと貯水槽設置費13,000ドル(貯水槽は20立米で小さ過ぎる)。
この工事費で手術室6、滅菌室1、付属室13が出来る。単価は1平米当たり約70万円だから、高価なものである。
建物は1883年建築のもので、これを活かして改修工事をするから新築よりも費用がかかる」と。
五代儀が「この図面のコピーをください」と言ったら、「明日の晩までに寸法を入れてコピーしてやる」と約束してくれた。
「病院の他の部分の図面が欲しい」と五代儀が言うと社長は、「前に改修を請け負った病棟の図面がある。これは古いので、寸法をもう一度測って入れなおす必要がある。これはニロ医局長がいる2階建ての建物で、明日、従業員に寸法をとらせて図面に記入してやる」と言ってくれた。
五代儀は1級建築士なのでフェルナンド社長と気が合い、話がトントン拍子に進んだ。五代儀が「病院の水と電気を確保するため、給水ポンプや発電機を供与すべきと痛感した。そういうものの見積もりをお願い出来るか?」と訊くと、彼は二つ返事で、「出来ます」と言う。五代儀は、「帰国後、今回の調査資料を解析して、その結果、必要となったら、見積もりをお願いするかもしれません」と言った。
そのときフェルナンド社長が妙なことを口走った。「手術棟の工事が終われば医療機材は直ぐ入ります。機材は購入済みです」
我々は仰天して、「ええっ!それは初耳だ。我々は手術室に入れる機材を寄付するように要請されたので、調査に来ているのです」と言うと、フェルナンド社長が、「それは分かっています。しかし、機材は既に購入されています。なんでしたら業者を紹介しましょうか?」「はい、お願いします」
そこで社長は電話をかけた。「明日、午後6時にここで会う約束になりました。宜しいですか?」と言うので承諾した。
2.保健省で重要書類を発見する
翌3月6日午後3時、保健省統計課。追加機材の要請書が保健省計画局長モルガド氏から手渡される約束になっていたので、3人がパソコンの置かれたデスクの前の丸椅子に座って待っていた。幾ら待ってもモルガドが来ない。来るはずになっていた機材局長のロザ・ネト氏も来ない。いるのはいつものエドガルドという若いスタッフともう1名の統計課員である。
「何をやっているんだろう。人を馬鹿にするにもほどがある」と、流石に好人物の五代儀が腹を立てた。本当は追加機材のリストは3月1日に渡されることになっていた。間に合わないからと言い訳されて、3月6日に延期したのである。これは先に帰国した団長の寺尾が「延長をやってはいけない」と念を押して言ったことではあったが、止む無く延長したのであった。
五代儀も寺尾の指示に反してまで、提出期限の延長に応じたくはなかった。それは余りにも理不尽な院長と医局長をキャップに頂くジョシナ・マシェル病院スタッフが気の毒なので、希望を叶えてやりたいと思ったのだ。第1に耳鼻咽喉課のマトウバ医師がいた。彼の熱心さに応えてやりたかった。それなのに肝腎の保健省の役人たちが約束をすっぽかして追加機材を要請してこない。我々の腹のうちに怒りがこみあげてくる。
そうした心中を察して慰めようとしたのかどうか?エドガルドが言った。「あなたがたが欲しがっているデータはこのパソコンのなかにあります。しかし、予算がなくてインクリボンも紙も買えません。あなたがたが金を出してくれるならば、データを出してあげます」珍しいこともあるものだと私は思った。これまで貰った保健省の資料は古くて使い物にならない。「1994年、95年のデータが欲しい」と言っても、言下に、「ない」と断られる。一番欲しい保健省とジョシナ・マシェル病院の予算書も、「ない」と言われた。
「それで幾ら出せば良いのですか?」と私が尋ねた。「200ドル」とエドガルドが応える。「それでは考えておきます」私は即答を避けた。200ドルぐらい自分のポケット・マネーを出しても良い。だが待てよ、金を出したは良いがこちらの欲しいデータはなかったという結果になったら困る。迂闊に手出しが出来ないと思いを巡らした。
我々が気乗りしない顔を見せたので、エドガルドが気を引こうとして、「これは最近入荷した薬品のリストです」とデスク上の書類を渡辺に手渡した。「なるほど、薬品のリストですな」と渡辺が言って五代儀に廻した。五代儀は一瞥してエドガルドに返した。エドガルドは2人の反応がないので、その書類をデスク上に放置してもう1人の同僚と雑談を始めた。
私は見せて貰えなかった書類に興味を覚え、立ち上がってデスク上の書類を手に取った。
ポルトガル語でタイプされた文書であった。第1ページには薬品リストと書かれてあった。渡辺も五代儀もそこだけ見て、詰まらないと思ったようだ。
第2ページには消耗品とあった。
第3ページはと見ると、「医療機材リスト」とあった。そのくらいのポルトガル語は私にも分かった。タイトルの下に「ジョシナ・マシェル病院のための機材」とあり、次ぎの行には、「本年3月1日にルアンダ港に到着した保健省の機材」とあり、昨日WHOのエマヌエル先生から聞かされた機材であることが分かった。
エマヌエル先生は新聞切り抜きを見せて、「これは君たちにとって貴重なニュースだ」と言明した。そこには保健省のコンテナが大量にルアンダ港に着いたことが報道され、そのなかにジョシナ・マシェル病院宛の医療機材が入っていたのである。病院が購入した機材とダブって日本政府が寄付しないと知っているエマヌエル先生が親切にも我々調査団に教えてくれたのである。
私はエドガルドに見つからないように、手で隠しながら、文書の内容をノートに書き写した。幸い彼は同僚との会話に夢中で私が何をしているか、気付かなかった。
「3月1日、ルアンダ港に到着するジョシナ・マシェル病院のために医療機材」と表記したあとに、『循環器科:トレッドミル心電検査装置一式、ホルタ−長時間デジタル心電検査装置一式。救急部:縦型自動滅菌機2台。中央検査部:分光光度計7台、遠心沈殿機7台、双眼顕微鏡10台、自動電気泳動分析装置5台。歯科:治療用ユニット2台、患者用椅子2台、患者診療用椅子2台、歯科医師用椅子2台、助手用椅子2台、歯科治療用機械一式、。その他:ギャッジ・ベッド(マットレスつき)280台、床頭台200個、集中治療用バッド(マットレスつき)35台、車椅子15台、3つ折り衝立25個、点滴台100個、骨折治療用牽引装置50個』と書かれてあった。このなかで日本政府に供与を要請した機材は13品目もあった。つまりダブっていた。
「こういうものがありましたぞ!」私はノートに書き写してから、文書を五代儀と渡辺に見せた。渡辺が翻訳してジョシナ・マシェル病院あての医療機材と判明したから、2人はびっくり仰天、「何だ!ダブっているじゃないか」と五代儀が大声をあげた。その声にエドガルドが振り向き、我々が書類を手にして目を丸くしているのに気付き、一瞬、「しまった」という表情をしたが、直ぐ平静をよそおい近付いてきて、五代儀の手から書類を抜き取ると、デスクの上の他の書類の間に挟んで隠した。
「私が全文を書き写したから大丈夫」と私はノーとを指差して五代儀に告げた。五代儀はうなずいてから、「アンゴラ政府は何を考えているのか分からない」と言った。日本政府に寄付を要請しておきながら、機材を先に購入してしまうなんて理解出来ない。要請しない機材だけ買えば良いのに。しかも買っておいて隠すとは余計分からない。ダブった機材をどうする積もりなのだろうか?不審でならない。
3.CTC社の情報
3月6日午後6時、フェルナンド社長の部屋でCTC社の社長ジョアン・リベイロ氏と会う。この人もポルトガル系のアンゴラ人であった。彼が説明するのには、
「保健省からジョシナ・マシェル病院の手術棟用医療機材の発注を受けました。代金は600万ドル。機材の現物は半分は会社の倉庫にあり、他の半分はルアンダ港にあります。
内訳は手術台、天井吊り下げ式無影灯、移動式床置き無影灯、全身麻酔機、患者監視モニターなど、それぞれ6台づつ。それからCアームつきエックス線テレビ装置2台、その他、薬品、消耗品など全部でコンテナ30個分です」
これには我々3人は開いた口がふさがらない。
「我々は何のために来たのだろう。『機材をくれ』と要請したから調べに来て見れば、既に機材はあった。無駄な使いだった。
それにしても、保健省の役人も、病院幹部も買ったことを何故教えてくれないのだろう」と憤慨したり、落胆したりした。
「その機材リストを見せてください」と五代儀が頼んだ。するとリベイロ社長が、「今はありません。後日送ります」と答えた。「それじゃ、東京へFAXで送ってください」と五代儀が会社の住所とFAX番号を書いて渡した。
要請リストと購入済みリストを照合してダブっている機材を消せば良いと思った。それにしても、アンゴラ出発の前夜に知らされるとは遅過ぎた。もっと早く知っていれば苦労しないで済んだ。いや、日本出発前に知っていれば来なくても済んだかも知れない。何故アンゴラ政府はこの事実を日本政府に知らせなかったのであろうか?
4.保健省・計画局長とのやりとり
アンゴラ出発の前日(3月6日)午前9時、我々3人は保健省計画局長の部屋の前でモルガド局長が来るのを待ち受けた。彼が9時から9時半の間に保健省に顔を出すことを聞き知ったからである。3日も前から我々はモルガド局長に会おうと足繁く通ったが、ストに入った組合員との交渉とか、閣議とか、自宅で休んでいるとかで会えなかった。
9時20分、とうとう彼が姿を現した。大きい目をギョロつかせながら、「見つかってしまったか」と悪戯っ子が母親に見つけられたときの表情をした。
「ボクたちは明朝出発するので時間がない。追加リストを我々が作ってきたから、要請状を書いてください」と五代儀が言った。「ワシも時間がない。10時には迎えが来て出掛けなければならぬ」と局長が答えた。「じゃあ、誰かにやらせれば良いでしょう」と五代儀はじれったくなって、干渉がましいことを言った。すると局長は素直にうなずき、統計課のエドガルドを呼んで書類の作成を命じた。
局長もタイプライターに向かい、追加要請機材リストの表紙につける要請状を書き出した。エドガルドは五代儀が作ってきた機材リストのタイプ打ちを始めた。折りからの停電!しまったと思ったら、2人はタイプを続けている。電気を使わない旧式のタイプライターだったから、停電は無関係だった。不便な機械も便利になる。
10時、書類が出来上がり、局長はやれやれと目を細め、白い歯を見せて笑った。そして、そばにあったスタンプを押してくれた。
「それから病院の図面が欲しいので建設省へ行ったら、『保健大臣からの正式な要請状が要る』と言われました。建設大臣宛の要請状を作ってください」と五代儀が頼んだ。すると局長は額の汗を拭いながら、「それは今日は出来ない。保健大臣のサインを貰うのは面倒だ。ワシには出来ない。官房長に頼め」と拒絶した。
「じゃあ、保健省の予算を見せてください」と五代儀が頼んだ。「ワシは忙しいから駄目だ」と局長が断る。「だって前から頼んであったではありませんか」と五代儀。「後から送るから今日は勘弁してくれ」と彼が謝る。「きっと送ってください」と五代儀が念を押した。局長はほっとしたかのように、微笑を浮かべてその場を去って行った。援助しに来ているのに何という態度かと腹立たしくなった。
5.建設省に図面を貰いに行く
五代儀が「病院の図面はどうしても必要」というものだから、2月26日、事務長との会議の席上、岩崎が、「図面を取り寄せてくれ」と依頼した。するとアダン事務長が、「1週間後に取り寄せる」と答えたので安心していた。しかし、1週間しても取り寄せることが出来ない。
「それでは自分たちで行く」と言うと事務長は院長名の図面申請状のコピーをくれ、「これと同じ申請状を提出してあるから、行けば貰えるはずだ」と言い、案内に門番をしている坊主頭のネトーをつけてくれた。
建設省は海岸近くの広場に面した高層ビルの9階にあった。間が悪いことにエレベーターが故障していた。それで我々は若くて元気なネトーがラップ歌手よろしく頭を振り、尻をねじらせながら階段を上がるのに続いて登って行った。やっと9階にたどり着いて、廊下を歩いている女子事務員を掴まえて、ネトーが院長名の手紙を見せた。すると彼女は、「月曜以外は受けつけません。来週月曜に来てください」とにべない返事であった。
しかし、五代儀は、「来週の月曜に図面が貰えるのだな」と嬉しそうに笑った。病院の図面と予算が入手出来れば我々の使命の大半は終わると思ったかれである。
翌週の月曜日、「みなで行かなくともボク1人で大丈夫」と五代儀は門番のネトーを連れて建設省へ行った。図面とはどういうものだろうと私は思った。青写真なのか、それとも白地に黒ペンで手書きしたものか?コピーをくれるとなれば、大きいコピー機械が要る。建設省に果たして大型のコピー機があるのだろうか?と私は思い巡らせた。
昼に五代儀が手ぶらでやって来た。「図面はどうしましたか?」と私が訊くと五代儀は、「駄目でした」と答えた。彼の説明によると、「エレベーターはまだ直っていず、ネトーと一緒にもう1回、建設省がある9階まで登って行ったら、『図面は保健省へ送った』と言う。『保健省のどこへ送ったのか?』と訊くと、『建設課のフェルナンダ課長宛に送った』と答えた。それで真っ直ぐ保健省へ行ってフェルナンダ課長を探したが、見つからない。午後からまた行かなければならない」という。
その日の午後、五代儀、渡辺、私の3人組が保健省建設課へ行くと、運良くフェルナンダ課長が廊下を歩いて来るのに出合わせた。驚いたことにスマートな若い女性だった。褐色に染めた頭髪をふんわりと膨らませてカールさせており、ピンクのスーツにミニスカートをはき、褐色がかった黒くて形の良い足をすっかり露出し、踵の太いハイヒールを履いていた。颯爽とやって来て、廊下で待ち構える我々の前に立ち止まり、モデルがするように両足を揃えてから、すっと片足を引き、上体を斜めに構えて流し目で見た。
「わたしにご用かしら?」と彼女が訊いた。それで五代儀が渡辺の通訳で、「病院の図面を探している。院長が建設省に文書で請求したので貰いに行ったら、建設省が、『こちらへ送った』と言うので、受け取りに来た」と用件を述べた。「図面はまだ受けとってません」と彼女が気取った返事をした。「それでは、受け取ったらボクにください」と五代儀が頼むと、「いいわ」と愛想良く答えた。
「それから、イタリー大使館で聞いたのですけど、ジョシナ・マシェル病院の改修計画の研究をされているそうですね」と五代儀、「ええ、しましたわ」と不審顔の彼女。「その時の図面があったら見せてください」「あらっ!そんなもの、もうないわよ」と荒い口調になる。「どうしてないのですか?」「みんなローマへ送ったわ。ローマで印刷の準備中よ」「でも、原稿があるでしょう?原稿に使った下書きぐらいはあるでしょう?あったら見せてください」と五代儀が食らいつく。「あるわけないでしょ」とつれない彼女。「何もないのですか?」「いい加減にしてよ!」と剣突を食らわせる彼女。
五代儀は取りつくシマもなかった。あの女に適当にあしらわれているなと思った。彼女は用事が済んだとばかり、コツコツと靴音高くあげて行ってしまった。
「あれは隠しているな」と五代儀が言った。「研究の原稿を持っていないはずがない。それにしても、我々はどこへ行っても邪魔者扱いされる。おかしな国だ」と述懐した。彼は東南アジア、中近東に日本政府の用事で出張した経験があるけれど、アンゴラほど、人を馬鹿にする国はないという。
私も匂いには辟易した。黒人特有のワキガの匂いだ。腐ったチーズのような、鼻をさす強烈な匂いがやってきて窒息しそうになる。特に車に乗ったとき、窓を閉めてクーラーをかけると運転手のマテウスの匂いが車内に立ち込み、我慢出来なくなる。ホテルでも部屋に女中が入って来たときや、食堂でウエートレスが寄って来たとき、プーンといやな匂いがしてくる。病院に行くとワキガの匂いに排泄物と膿みの匂いが加わって何とも言えない悪臭がして吐き気がする。こんなところにいたら死んでしまうと思った。
「しかし、病院の図面を予算書を入手しなければ、帰れませんね」と私は自分に言いきかせるように言った。「そうです。何とかして手に入れなければ」と五代儀が相槌を打った。
それで建設省へ行くことになった。先日の院長の要請状は建設省に渡してしまったので、もう一度アダン事務長に書いてもらおうと頼みに行った。
3月5日朝、病院事務長室へ行くと、アダンが、「ワシも一緒に行く」と言ってくれた。地獄に仏とはこのことと、喜んだ我々はアダンのいう午後3時に事務長室に迎えに来ることにした。
定刻、事務長室へ行こうとすると、ネトーが飛び出してきて、「事務長は行かれなくなった。交通事故にあった」と言う。「おやまあ、間が悪い。怪我しましたか?」と訊くと、「怪我はないが、車が壊れ、いま警察へ行っている」と。
再び建設省の9階まで歩いて行き、息を切らせながら事務室に入った。五代儀が既に顔見知りになっていた女性秘書がいて、「ちょっと待って」と断って奥に入ったと思うと、直ぐ出てきて、「こちらへ」と案内するのでついて行く。奥の部屋にコンピューターに向かい、回転椅子に座った痩せて小柄な若い男がいた。主任のマリオである。アンゴラ人には珍しくメガネを掛けて学者風の顔をしている。半ズボンから出た両足は細くて、しなびていて小児麻痺の後遺症のようだ。この足でどうやって9階までの階段をあがって来たのかと不思議に思った。
「図面はまだ保健省に届いておりません」と五代儀が言った。「そうですか。送ったのは別の人ですから、どんな手段で送ったのか分かりません。とも角、送ってあります(部下の話でDHLで送ったことが分かった)」とマリオが答えた。五代儀が頼んだ。「もう一度貰えませんか?今度はボクに直接貰いたいのですが」「病院の図面をあげるのは、保健大臣から建設大臣に話して貰わなけらばならないのです」とマリオは気の毒そうに言う。彼は我々の事情を知っているようであった。五代儀が言った。「保健大臣の要請状を貰うように努力してみますが、我々は明後日の朝の飛行機で出発しなければならないので、間に合いそうもありません。出来ましたら、図面を見せて頂き、写真に撮らせて頂きたいのです」するとマリオはうなずいて、「それは良いでしょう。明日の午後3時に来てください。何とかしましょう」と言った。
翌3月6日午後3時、9階まで歩いてあがる。昨日の女性がいた。短めの頭髪をふんわりとカールさせ、面長な表情豊かな顔は無邪気で明るい性格を見せていた。「マリオは昼食に行ってまだ帰りません。ここで待ってください」と言う。そこは建設次官の秘書室で、彼女はルイザ・ロシオという名で、次官秘書であった。
「年はいくつですか?」と渡辺が訊いた。「27才です」「結婚していますか?」「まだ独身です」と答える。「給料は幾らですか?」と渡辺。「1ドルです」と彼女。「ええっ!まさか」と五代儀と私が驚いて訊き直した。「だって月給4万8千クワンザですから1ドルです」「それじゃ、どうやって生活しているのですか?」「給料が安くて生活出来ません。お金をください」とルイザは渡辺に甘えた。
「ノドが乾いた。ルイザさん、コカコーラを買って来てください」と五代儀が言った。コカコーラ1本4万クワンザというので、五代儀はルイザに16万クワンザを与えた。彼女は下へ降りて行って間もなく、息せききって戻ってきた。コカコーラ1缶5万クワンザに値上がりしたので3缶しか買えなかったと言う。「私はいいからルイザ飲みなさい」と私が彼女にあげようとしたら、「要らない」と言う。「朝から何も食べていないから、コカコーラを飲んだら胃が悪くなってしまう。パンが欲しい」とのことであった。月給1ドルでは食べるのにも事欠くので彼女はスリムなのだ。
「わたしの姉さんがジョシナ・マシェル病院で手術を受けるのでお金が要るのです」とルイザが言う。「あの病院はタダではないのか?」と五代儀が訊いた。「表向きはタダですけど、ドクターにはお金を払います」
「そうだっだのか。それじゃ、たいへんだね。ドクター・ニロは沢山取るんだろう?」と訊くと意外な返事が返ってきた。「いいえ、ドクター・ニロは評判がいいわ。だってお金をくれるんだもの」これには我々も顔を見合わせて不思議がった。今のいままでアイツはひどい男と思っていたからだ。「ネズミ小僧みたいなのだよ、きっと。金持ちからいっぱい取って、貧乏人には施しているのかもね」と五代儀が言った。どうもアンゴラ人は分からない人種だと思った。
5時15分、とうとうマリオがやって来た。彼は両足が麻痺して歩けないので、階段を這ってあがって来た。9階までどうやって這いあがったのか、分からない。1階また1階と、休みながら気長に根気良くあがって来たのだろうと推測した。彼は廊下を這ってくるとい、這ったまま次官室の鍵を開けた。そして会議用テーブルの前に置かれた椅子に這い上がり、ルイザを呼んで図面を広げさせた。病院の図面はずっとテーブルの上に置いてあったようだ。マリオが午前中そこに用意させておいたのであろう。
図面は半透明の大判のハトロン紙に墨をいれて描いた手書きの設計図で、骨董品としての値打ちがありそうである。1883年建築の本館、1957年増築の2階建て新館が描かれてあった。1989年増築の5階だて新館分がないから、これらの図面は恐らく1957年の増築時に描かれたものと想像される。本館玄関正面立面図などは竜宮城のように優美に描かれてあった。
興奮した五代儀と私が代わる代わる写真に撮った。私はノートに図面の概略を写し取り、主な部分の寸法を書き込んだ。そうすれば写真をもとに図面が再構成されると思ったからだ。この原図を描いた人はどんな人だったのかと思った。ポルトガル人の設計士か?それともアンゴラ人の助手か?紙に手を当ててペンを動かしている人の息遣いが伝わってくるような気がした。
6.とうとう予算書を貰う
アンゴラ出国前日の3月6日午前11時、アダン事務長と面談。五代儀、渡辺と私。
水道料金が月1億1千万クワンザ、電気料30億クワンザ、ジーゼル油代2千万クワンザ、これは毎月遅滞なく払っていると。
アダン事務長が機嫌上々でしゃべっているので、調子に乗って私が尋ねた。「病院の予算を教えてください」とたんに彼の表情が硬くなって、またかとイヤな顔になり、「予算は院長の許可がなければ教えられません」と突っぱねた。
「仕方がない。見納めに病院を一回りして来よう」と我々は本館玄関の方へ歩いて行った。すると院長のペドロ先生が廊下に立って来客と話をしていた。
「院長先生、どうも、いろいろお世話になりました。明朝、出発します」と言って我々は1人づつ進み出て握手を交わした。院長は、「ご苦労さん、それでは院長室に来なさい」と何気なしに我々3人を伴い、院長室奥の会議室に連れて来た。どの程度調べたか、聞き出そうと思ったのかも知れない。
彼は色は黒いが、耳の周囲は橙色を帯びており、頭髪は白髪混じりの茶色だった。
「手術室の改修工事はいつ終わりますか?」座につくなり五代儀が尋ねた。「6月に終了する予定です。予算は75万ドルです。今全額を払えば5月中には終わります」院長は機嫌が良いのか、要らぬことまでしゃべり出す。工事を請け負ったコロド社では400万ドルと言っていた。院長が言うのとは大分開きがあり、どちらを信用して良いのか分からない。
「ねえ、院長、病院の予算を教えてください」と私が言うと、それまで柔和だった顔が鬼のようになり、耳の周りの赤い部分が一層赤くなった。「折角ですが、病院の予算は国家機密です。絶対、教えられません。一体全体、君たちは何故病院の財務内容を知りたがるのか?」と彼が反問するので五代儀が説明した。「日本はこれまでいろんな国に医療機材の供与をしてきました。ボクはその仕事に長年携わってきましたので、失敗例も成功例も知っております。失敗したのは何故かと言えば、メンテナンスが出来ないからでした。それで供与先の病院の財務内容を知りたいのです」彼は体験からものを言っているので、説得力があった。
「メンテナンス予算だけで良いのか?」と院長が訊いた。「いいえ、全予算でなければ行けません」と五代儀が言っているとき、アダン事務長が登場した。彼が何故やってきたのか、分からない。しかし、絶妙のタイミングであった。
事務長がポーカーフェイスで院長の隣に座ると、院長は事務長の顔をしげしげ見てから言った。「1993年、94年の予算をテキさんに教えてやってくれ」院長の思いもよらぬ言葉に事務長は顔の筋肉をこわばらせ、真っ赤な厚ぼったい舌を唇の間から覗かせて驚いた表情をしていたが、「承知しました」と重々しい口調で答えた。「1995年も要るのです」と、すかさず五代儀が叫んだ。「1995年はいけない!」とアダンも大声で言った。「そうか、仕方がないか」五代儀がぼやいた。
院長室を出てから五代儀と渡辺が「放射線科に用事があるから」と言って別れた。
「私は事務長について行って虎の子を貰ってきます」と私は千載一遇の好機を逃すまいと、アダンに密着して行くことにした。2階建て新館入り口で大兵肥満の経理課長オズワルドに会った。事務長が課長に、「ワシは昼飯を食いに行くから、この日本人に1993年、94年の予算書をコピーしてやっとくれ」と命じた。そして私に、「オズワルドについて行け」と言った。オズワルドも昼食に行こうと思って出て来たようだが、事務長に命令されて、仕方なしに向きを変えて、事務室に私を連れ帰った。彼のデスクには誰か事務員の家族らしい女たちが2人来て座っていた。課長が昼飯の出掛けたと思って占領したらしい。彼が戻って来たので、慌てて席をあけ、私にもイスを譲ってくれた。
課長は自分を恐れた女たちの仕草に機嫌をよくしたのか、仁王様のような顔を綻ばしてデスクに座ると、傍らの戸棚から書類を取りだして近くにいたスタッフにコピーするように指示した。そこへ五代儀と渡辺が入ってきた。スタッフがコピーを持って来たので、一応課長が目を通してから私にくれた。1993年、94年度の予算書だった。私がそれを五代儀に渡すと、五代儀は目を通してから言った。
「1995年度分もください」
するとオズワルド課長は全く抵抗がなく、素直にうなずいて、先ほどのスタッフを呼び、別の書類類を取りだしてコピーするように言いつけた。コピーは直ぐ出来た。これで3年間分の予算書を入手したわけである。
「やったあ!」外へ出ると我々は手を打って喜び合った。これで必要なものは揃った。3週間粘った甲斐があった。
なぎさちゃん、これで話はおしまい。帰国間際になって病院の図面と予算書が手に入り、その上、保健省が買った医療機材の調査も出来たので、今回の旅行の目的はほぼ達成された。
だが、1994年度の予算書は拒絶されたのに、オズワルド経理課長を騙して貰って来たものだから後悔の念が残った。あとで課長は事務長に叱られたであろう。あるいは事務長は1994年度予算書が我々に渡ったことに気付かないかもしらない。
病院のストライキがずっと続いて、心電計、脳波計、超音波診断装置などがある部屋には入れなかった。また、それらの機械の使用頻度や検査数も調べず、調査が片手落ちになった。結論としては余り高価な機械は上げられない。壊れにくく、維持費がかからず、基礎的な医療機械を寄付しようということに落ち着いた。
使命を果たして帰国でき、なぎさちゃんに会えるかと思うと嬉しくてたまらないよ。
おわりに
さすがにアンゴラ航空の機内はワキガの匂いはしなかった。座席に座ったとたん、空気が清浄に感じられ、解放感が身を包んだ。アンゴラ航空に乗った理由はジンバブエの日本大使館に寄って調査結果を報告する必要があったからである。途中、ルサカに寄り、乗客の乗り降りがあった。高地らしく空気が乾燥して心地良かった。私は登場口から一歩出て、タラップの上に立ち、やわらかな日差しを浴びながら深呼吸した。私と並んで中肉中背の中年の白人男性が金髪に陽光を浴びて立っていた。
「ポルトガル人ですか?」と私が尋ねると、「ノー、アンゴラ人です」と答えた。「それは失礼、ポルトガル人かと思いました」「父母はポルトガル人でした。しかし、ボクはアンゴラ人です。アンゴラ人であることに誇りを抱いています」「何故ですか」という私の問に彼が答えた。「アンゴラは美しい国だからです。ボクはアンゴラを愛しています」
私は感動をおぼえた。今の今までこんな国には未練がないと、逃げ出すことばかり考えていた自分が恥かしくなった。この人が言う美しさとは山川草木や、高原、滝、野生動物などの天然の美しさばかりでなく、土地の人々の心の美しさも言っているに相違ないと思った。これまで会った人々の顔が目に浮かんだ。「私はとんだ誤解をしたのではないだろうか」との思いが湧いて胸を痛めた。
日本人も敗戦直後は生活難で国民すべてが闇屋をやって食いつないだ。法律を守ったために餓死した裁判官がいて、そのことを知った全国民が衝撃を受けた。アンゴラは当時の日本に似ている、生残るためには、どんなことでもしなければならない。必死になって生きている人たちの悪口は言えないと思った。
それに、保健省の幹部や病院の管理者たちにはそれなりの理由があった。6月にはUNITA出身の保健大臣が就任することになっている。
そうなれば、この人たちは職を追われるだろう。来年になるかも知れない日本の機材供与どころではない。数ヶ月先が真っ暗なのだ。マルチニア大臣、フランシスコ副大臣、モルガド局長、ロザ・ネトー局長、ペドロ院長、ニロ医局長、アダン事務長・・、みな尻に火がついたようなものだ。我々の応対が真剣に出来るわけがない。それを責めていた私は何て馬鹿なんだろう。申し訳ないことをしたと反省した。
新大臣が何をやるか分からない。大ナタを振るって改革をやることは想像がつく。たまにはそれが良いだろう。栄養失調で、悪化した居住環境にいる弱者のためを考えてくれる政策なら悪くはなかろう。そしてジョシナ・マシェル病院の管理も改善して貰えれば言うことはない。
ここで1つ希望が持てるのはUNITAのリーダーであるサビンビにインタビューした大津司郎氏の記事である。月刊アフリカ1994年9月号。これを引用すれば、
「そもそも、かっての東西冷戦の下では社会主義解放勢力(MPLA)=正義、そして、米・南アの傀儡(UNITA)=反動・悪という見方自体誤りである。アフリカ全体でも言えることであるが、とくにアンゴラの場合、社会主義体制対西側傀儡勢力の戦いという以前に、ルアンダと海岸部を中心に勢力を持つ急進的知識人・ムブンドス族対内陸部に勢力をもつオビンブンド族、バコンゴ族などの間における激烈な部族間闘争であったということである。
たとえMPLAが今回の選挙で勝ったとはいえ、現実にアンゴラの80%を支配しているのは依然UNITAであり、サビンビへの支援もまた絶大であって、そのカリスマ性は衰えることがない。
最後になってしまったが、サビンビにインタビューしたものとして、いかなる経緯があろうと彼の存在と政治力(実際彼のキャリアと戦略家としての体験を超える指導者は他のアフリカにはほとんどいない)は無視できないし、今後マンデラ氏の下に出発をする新生南アとの関係、そしてアフリカ全体の政治的動向の中で彼の存在を軽んじると大きな過ちを犯すことになると感じた(1994年3月)」
大津氏の見方に従えば、UNITA出身の新大臣の手腕は期待できる。そして大統領は変わらないし、閣僚ポスト数と国会議席数はMPLAが多数を占めるから、極端な政策変更はないだろう。とすれば、保健行政と国立病院運営は改善に向かう可能性が高い。そのことに希望を託して今後の成り行きを見守りたい。(了)